ことし2025年で終結から50年をむかえた
ヴェトナム戦争の記憶をめぐる旅、
まずは、アメリカ研究の生井英考先生に
お話をうかがいました。
ヴェトナム戦争に従軍した兵士たちが、
アメリカ社会から、
どんなイメージを抱かれてきたかについて。
泥沼と呼ばれた戦争に疲れ、
傷ついたアメリカを「癒やす」ために建設された、
ヴェトナム戦争戦没者の記念碑のこと。
映画や物語の観点から語られる、
いまのアメリカ社会の分断の源流としての
ヴェトナム戦争。
その「教訓」は、活かされたと言えるのか。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>生井英考さん プロフィール

生井英考 プロフィール画像

生井英考(いくい・えいこう)

1954年生まれ。慶應義塾大学卒業。アメリカ研究者。2020年春まで立教大学社会学部教授、同アメリカ研究所所長。著書に『ジャングル・クルーズにうってつけの日――ヴェトナム戦争の文化とイメージ』『負けた戦争の記憶――歴史のなかのヴェトナム戦争』『空の帝国 アメリカの20世紀』ほか。訳書に『カチアートを追跡して』(ティム・オブライエン著)、『アメリカ写真を読む』(アラン・トラクテンバーグ著)など。最新刊に『アメリカのいちばん長い戦争』(集英社新書)がある。

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第4回 ヴェトナム戦争戦没者慰霊碑

──
アメリカ社会の空気を変える
きっかけのひとつになった‥‥という、
ヴェトナム戦争の戦没者慰霊碑について、
あらためて教えてください。
生井
あの慰霊碑が除幕されたのは1982年、
レーガン政権が発足して1年半ほど経ったころ。
V字型の、
黒い壁のかたちをしたモニュメントで、
表面には
ヴェトナム戦争で亡くなった兵士たちの名前が
刻まれています。
──
その数「5万8千人以上」ですよね。
生井
ぼくは、この記念碑のことを紹介するときに
「写真に写らない記念碑」と呼んでいます。
──
写真に写らない?

Jon - stock.adobe.com Jon - stock.adobe.com

生井
全体を一枚の写真に収めることができない。
地面を掘り下げてつくられているので、
全体のシルエットを
1枚の写真に収めることができないんです。
──
なるほど。
生井
あるいは「盛り下がる記念碑」。
記念碑って、通常「そびえ立つ」ものですよね。
だから、訪れた人は、それを「見上げる」。
ベルリンのティアガルテンにそびえ立つ
戦勝記念塔はもちろんですが、
ロンドンのホワイトホールストリートにある
第一次世界大戦の追悼碑・慰霊碑でも、
「そびえ立つ」姿をしている。
広島の記念公園にある広島平和都市記念碑も、
威圧感はありませんけれど、
やはり上向きにぐっと力強く造形されてます。
──
ええ。
生井
でも、ヴェトナム戦争の戦没者慰霊碑の場合、
ゆるい下り坂になるように
地面を掘り下げてつくられているので、
訪れた人は「仰ぎ見る」かたちになりにくい。
いちばん深いところに立ったときには、
慰霊碑自体は3メートル以上あるので、
「見上げる」かたちにはなるんですが、
そこへたどりつくまでには
坂道をゆっくりと下り、
歩きながら自然に沈降するかたちなので、
「そびえ立つ」感じがしないんです。
──
なるほど。他の慰霊碑とは、
その点だけでどこか異質な感じがします。
生井
記念碑というものには大きく2種類あります。
ひとつはモニュメント、つまり顕彰碑。
戦争の勝利や、人物の栄光を称える類のもの。
もうひとつはメモリアル、つまり鎮魂碑です。
誰かの死や人々の犠牲を悼むもの。
ただ、どちらにしても、
記念碑とは「見上げるような建造物」だった。
──
それまでは。
生井
そう。その「常識」を、
ヴェトナム戦争慰霊碑は正面から覆しました。
ただ、実際に除幕されるまでは、
あまりに従来の記念碑の「常識」から
かけ離れていたため、
あの慰霊碑をどう受け止めるか‥‥で、
当時のアメリカ社会は、揺れに揺れたんです。
──
保守とリベラル双方の陣営から非難されたと、
ものの本には書かれていますね。
生井
保守派は
「反戦運動家が兵士たちを責めるような像を
建てる気か」と攻撃し、
リベラル派は
「あんな不名誉な戦争を英雄視するつもりか」
と批判した。
慰霊碑の建設を提唱したのは、
社会的にはまったく無名だった陸軍の帰還兵、
ジャン・スクラグスでした。
──
先生の本でも述べられていますが、
あらためて、どういう経緯だったんでしょう。
生井
きっかけは、スクラグスが
マイケル・チミノ監督のヴェトナム戦争映画
『ディア・ハンター』を観たことでした。
1978年公開の映画ですが、
スクラグスは翌1979年に観たそうです。
あの映画って、
ロシアン・ルーレットによる拷問のシーンで
「悪名高い」んです。
──
一回観たら、ちょっと忘れられない場面です。
拷問のシーンとはまた別の場面ですけど、
映画のラストの‥‥
クリストファー・ウォーケンなんかも、もう。
生井
当時、ベルリン映画祭では
囂々(ごうごう)たる非難が寄せられました。
ソ連や中国をはじめとした共産圏の国々が
一斉に抗議のメッセージを出して、
映画祭をボイコットする騒ぎになったんです。
──
つまり、南ヴェトナム解放民族戦線すなわち
ヴェトコンの兵士が、
あのような残酷な拷問をするはずがない、と。
生井
余談ですけど、それから数年後には
ソ連のアフガン侵攻に抗議するという理由で
アメリカが
モスクワ・オリンピックをボイコットし、
その報復として、今度はソ連が
次のロサンゼルス五輪をボイコットしました。
映画祭は別に国別の対抗戦ではないんだけど、
文化やスポーツなど、
それまでは「政治とは違う次元にある」と
認識されていた分野が、
政治化しはじめた時代でもあったんです。
──
なるほど。
生井
ただ、『ディア・ハンター』の物語自体、
たしかに政治的な性質を帯びています。
ポピュリスト的な意味で、
アメリカの社会に対して
非常に強烈なメッセージを放ちました。
──
あの物語に出てくるアメリカの若者たちは、
それぞれに何かを悔いながら、
必死に人生を取り戻そうとしたり、
みずから破滅の人生を歩んでいったりした。
そのように描かれていました。
3時間を超える物語の最後には
『ゴッド・ブレス・アメリカ』も歌われて、
戦争に翻弄されたアメリカの若者、
というイメージが強く印象に残りますよね。

生井
そういう映画を、
ある週末にジャン・スクラグスは劇場で観た。
そして家に帰ってきてウイスキーを1本空け、
翌朝、奥さんと朝食をとっている席で
「戦死した仲間のために
慰霊碑をつくりたいんだけど、どう思う?」
と聞いたそうです。
奥さんとしてはできるとも思わなかったけど、
とくに反対もしなかった‥‥。
──
そんなちっちゃな「点」のようなところから、
アメリカ社会を揺るがす、
巨大な漆黒の壁のような戦没者慰霊碑が。
生井
スクラグスは、
まず地域の帰還兵の集会に相談を持ちかけた。
反対賛成は、半々。
「そんなの無理だよ」という人もいれば、
「気持ちはわかるよ」という人もいたと。
でも、とにかく、賛同してくれた仲間たちと、
ちいさな募金活動からはじめたんです。
商店街にブースを出したり、
ローカルのラジオに取り上げてもらったり。
市民運動としては、非常に地道なやり方です。
──
まさに「草の根」ですね。
生井
そういった活動が、だんだん広まっていき、
やがてAP通信やUPIで報じられ、
ワシントンポストや
ニューヨークタイムズにも載るようになる。
大きかったのは、運動方針を徹底したこと。
つまり運動員個人の政治的意見は語らない。
街頭や電話で募金を呼びかけるときなどに、
相手から
「おまえはヴェトナム戦争をどう思うんだ」
と聞かれても、自分の考えは口にしない。
──
アンチな人から挑発されても?
生井
そうです。あくまで
「死んでいった仲間を弔うための慰霊碑を
つくりたい」という思いだけを語った。
それはスクラグスが、運動に参加した面々、
みんなボランティアですが、
彼らに厳命したことでもありました。
大半が帰還兵ですが、
「きみたちにも、
戦争に対する思いがそれぞれにあるだろう。
でも、運動の現場に立つときだけは、
個人的な思いには封をしてもらいたい」と。
──
なるほど。
生井
帰還兵たちが受けた苦しみや悲しみを、
何らかのかたちで、
アメリカ社会が悼むような慰霊碑をつくる。
政治的に正しかったとか、
軍の戦略がまちがっていただとか、
そういうことを議論するつもりはない、と。
──
その方針を貫き通したんですね。
生井
ヴェトナム戦争についてどう考えるかとか、
どう評価するかはともかく、
あの戦争で死んだアメリカ人の兵士が
6万人近くいる、
そのことは歴然たる事実なわけだから、
彼らの死を悼むことは
当然なされていいはずだ‥‥という論旨で、
徐々に世論を盛り上げていったんです。
──
その、スクラグスさんのある朝の決意から
慰霊碑の完成までには、
どれくらいの時間がかかったんでしょうか。
生井
映画を観たのが1979年、
慰霊碑の除幕が1982年。
だから「足かけ3年」ですね。
──
すごいスピードですよね。
しかも、『バグダッド・カフェ』みたいな、
まわりに何にもない田舎じゃなく、
首都ワシントンDCの国有地を
払い下げてもらって建ててるんですよね。
生井
それら莫大な額にのぼった建設費用は
すべて「寄付」で賄いました。
もちろん、
大口の寄付をしたお金持ちはいましたよ。
自身も帰還兵のフェデックスの社長とか。
でも、国からの補助は一切ない。
──
デザインは、オープンコンペで。
生井
そう、18歳以上のアメリカ市民であれば、
誰でも応募できるコンペでした。
スクラグスたち団体のメンバーの他にも、
プロの建築家や建築評論家も入って、
デザインした人の名前をはじめ、
一切の情報を伏せたまま選考したんです。
──
その結果、
V字型の黒い巨壁のデザイン案が選ばれた。
生井
まるで「本を伏せた」ようなデザイン案が
多くの中から選ばれたんです。
そして、
さあ、こんなデザインを考え出したのは
どこの誰だというので、
フタを開けたら‥‥みんな「仰天」した。
──
はい。
生井
なぜなら、選ばれたデザインを考えたのは、
当時イェール大学の学部生だった
マヤ・イン・リン、
二十歳そこそこのアジア系女性だったから。

(つづきます)

2025-06-02-MON

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
    読者のみなさんからのお便りを募集いたします。

     

    ご自身の戦争体験はもちろん、
    おじいちゃんやおばあちゃんなどご家族や
    ご友人・知人の方、
    地域のご老人などから聞いた戦争のエピソード、
    感銘を受けた戦争映画や小説についてなど、
    テーマや話題は何でもけっこうです。
    いただいたお便りにはかならず目を通し、
    その中から、
    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
    の特集のなかで、
    少しずつ紹介させていただこうと思います。

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  • 生井英考先生の新刊は
    『アメリカのいちばん長い戦争』

     

     

    アメリカのいちばん長い戦争、といえば
    長らく「ヴェトナム戦争」でした。
    でもいまは、その座(?)を
    アフガン戦争に取って代わられています。
    あれほど反戦を叫ばれ、忌避され、
    「症候群」まで生んだ
    ヴェトナム戦争の「教訓」は、
    どのように活かされてこなかったのか。
    現在のアメリカ社会の「分断」は、
    どのようにヴェトナムから地続きなのか。
    待望の、生井英考先生の最新論考です。

     

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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶