こんにちは、ほぼ日の奥野です。
学生時代に何度も読んですりきれてしまった
ぶあつい文庫本を持って、
長野に住む石川文洋さんに会いに行ったのは、
2025年の夏のことでした。
あとから聞くと、そのとき文洋さんは、
すでにご体調がよくなかったそうなのですが、
報道写真家・ジャーナリストとして、
その目で見てきた「ヴェトナム」だけでなく、
ルーツである沖縄のことなど、
「戦争」について、丁寧に話してくれました。
その後、長く療養を続けてこられましたが、
先日、残念ながら、ご逝去なさいました。
あの晴れた日に交わした対話の断片を、
ご遺族にご了解いただき、
全5回のインタビューとして公開いたします。

>石川文洋さん プロフィール

石川文洋(いしかわ・ぶんよう)

沖縄県那覇市生まれの報道写真家。1965~68年、南ヴェトナム・サイゴンを拠点に米軍・南ヴェトナム軍に従軍し、ヴェトナム戦争を取材。1969年に朝日新聞社へ入社し、北ヴェトナムやカンボジアなどを取材した。1984年から再びフリーとなり、ボスニア、ソマリア、アフガニスタンなど世界各地の紛争地を撮影。ヴェトナム戦争を記録した写真で知られ、ホーチミン市の戦争証跡博物館には常設展示コーナーが設けられている。2026年8月23日、88歳で死去。

著作等
『写真記録ベトナム戦争』 (㈱金曜日)
『戦場カメラマン』・『報道カメラマン』 (朝日文庫)  ※『戦場カメラマン』は2018年筑摩書房より再版
『石川文洋写真集 琉球舞踊』 (創和出版)
『戦争はなぜ起こるのか –石川文洋のアフガニスタン-』 (冬青社)
『日本縦断 徒歩の旅 -65歳の挑戦-』 (岩波新書)
『てくてくカメラ紀行』 (枻文庫)
『カラー版 ベトナム 戦争と平和』(岩波新書)
『カラー版 四国八十八カ所 –わたしの遍路旅』 (岩波新書)
『私が見た戦争』 (新日本出版社)
『まだまだカメラマン人生』 (新日本出版社)
『フォト・ストーリー 沖縄の70年』(岩波新書) 
『基地で平和はつくれない』(新日本出版社)
『報道カメラマンの課外授業 全4巻』(童心社)
『小さくても輝く街の業者たち』(新日本出版社) 
『ベトナム戦争と私』(朝日新聞出版)
『ベトナム戦争と沖縄』(榕樹書林)
『80歳、歩いて日本縦断』(新日本出版社)
『元戦場カメラマンの視点 命どぅ宝』(労働大学) ほか

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第3回 もうひとつの視点があった

──
ヴェトナム戦争の取材中に同行した
「待ち伏せ」のときのことで、
もうひとつ、おうかがいしたいんですけど、
文洋さんが従軍していたのは、
「南ヴェトナム政府の軍隊」ですよね。
石川
はい、それと、米軍の任務とね。
──
ということは、北ヴェトナムや
南に潜伏していた解放戦線の兵士たちって、
文洋さんが行動をともにしていた
米軍や南ヴェトナム軍から見たら敵ですね。
石川
はい。
──
でも、当時の文洋さんのお気持ちとしては、
北ヴェトナムや解放戦線側に
シンパシーを感じてたわけじゃないですか。
石川
そうですね。
──
そのあたりの葛藤って、
なかったんでしょうか。
というのも、
文洋さんの書いたものを読むと、
待ち伏せに向かう南ヴェトナムの兵士にも
「死んでほしくない」って‥‥。
石川
ええ。
──
当然の感情なのかもしれないんですが。
石川
ぼくはね、ヴェトナム人のよさについては、
軍隊の兵士から教わったんですよ。
──
そうですか。
つまり、南ヴェトナム軍の兵士たちから。
石川
はい。従軍中というのは軍隊の兵士たちと
毎日いっしょにごはんを食べたり、
近くで寝起きしたりしていたわけですよね。
逆に、一般のヴェトナムの人たちとは、
それほど接触はないんです。
いちばん深く付き合ったのは兵士たちです。
──
おたがいの立場や思想信条の違いを超えて、
心が通じ合ったってことですか。
そうだとしたら、
「死んでほしくない」のは当然でしょうね。
石川
ヴェトナム人に限らず、
いざ戦争ということになってしまったら、
人間というものは、
ひどいことをしてしまう可能性がある。
でも、わたしは、
ヴェトナムの人々自体はいい人だなあって、
思っていたんです。
──
いい人。
いまは、敵と味方でわかれているけれども、
それは戦争というものがあるからで。
石川
だって、とっても親切にしてくれましたし、
何でも撮らせてくれたし、
ぼくが帰るときには泣いてくれる人もいた。
海兵隊に1カ月くらい従軍したあと、
フィルムがなくなって「もう帰ります」と、
そのときにね。
──
ああ、そうか。フィルムの時代ですもんね。
フィルムがなくなったら帰らなきゃ。
石川
そうなんです。
──
最初、香港のボスに「行くぞ」と言われて
ヴェトナムへ行ったとき、
ヴェトナムについて
そこまでの興味もなかったのに、
その後、4年間も
ヴェトナムに住むことになったのは、
ヴェトナムの人との
そういう交流があったから‥‥でしょうか。
石川
それはあります。
──
でも、そうやって、
ふだんは陽気で気のいい兵士たちも、
いざ戦場へと出れば、人が変わったように
子どもや老人もいる村に銃を乱射し、
ナパームを落としてしまう。
だからこそ、
つまり戦争が人間を変えてしまうからこそ、
戦争をしてはいけないんだと、
文洋さんは、おっしゃってきたんですよね。
石川
そうですね。
──
そもそも日本を飛び出したときって、
世界一周旅行を目指していたわけですよね。
それで、まずは香港に渡って‥‥。
石川
ひとつに、ヴェトナムに行く前のわたしは、
毎日映画社という会社で
撮影の修業をしたんです。
そして、その前は
毎日新聞社の編集局で給仕をやってました。
だから、
ジャーナリストの心はあったと思いますね。
そしてもうひとつは、
ヴェトナムが沖縄と同じ地上戦だったこと。
──
どういう意味ですか?
石川
つまり、わたしの母の父も戦死してますが、
まだ遺骨が見つかっていないんです。
──
ああ、そうですか。つまり、沖縄戦で。
石川
はい。沖縄戦では、
いま「4人に1人」と言っていますけれど、
大勢の人が亡くなっています。
自分の肉親を
ヴェトナムと同じ地上戦で亡くしたという
経験を持ったカメラマンは、
おそらく、わたしだけだったと思います。
──
なるほど。ご自身のルーツの「沖縄」が、
文洋さんに、
ヴェトナムに向き合わせた面もある、と。
石川
わたしの家は首里にあったんですけどね、
めちゃくちゃにやられて、
わたしのおばあさんたちもみんな、
日本軍の兵士たちと南へ逃げたんですよ。
──
ぼくも先日、沖縄をいろいろめぐったとき
糸数のアブチラガマに入りました。
助かる見込みのない兵士さんたちの部屋で
懐中電灯を消すと、
まったく光が入ってこなくて真っ暗でした。
石川
はい。
──
こんなところに置き去りにされて、
いかに絶望したか。
動けない人には「ミルクをあげるよ」って
青酸カリが配られたという話もあるし、
戦争では、極限的なことが起こりますよね。
でも、そういう沖縄の話って、
ただの「知識」としては知ってましたけど、
実際にその場に立つと、
そのおそろしさが
実感をともなって迫ってきますし、
いかに自分が
「本当には知らなかったか」ということも
わかりました。
石川
あとは、直接に体験した人の話を聞くこと。
少なくなってきていますけど。
わたしもおばあちゃんから。
南部へ逃げたときに大勢の死体を見たとか、
日本兵にガマから追い出されたり、
そういう話を聞くと、また違うんですよ。
──
やはり「実際に現場に立つ」ということは、
知識として知って、
それを頭の中で考えているだけの段階とは、
次元が違うなと思いました。
でも、そうか、
文洋さんがヴェトナムで4年間も
ジャーナリストとして活動していくことに
なったことの背景には、
沖縄にルーツを持つ人としての「思い」が
あったということですね。
石川
やっぱり沖縄に生まれたということで、
他のジャーナリストとは、
少し、見る目が違っていたと思います。
──
視点がもうひとつある、みたいな?
石川
わたしのルーツにある過去の「沖縄戦」と、
目の前の「ヴェトナム戦争」には
同じ「地上戦」という共通点がありました。
しかも、アメリカは戦略的に
沖縄がなければ、
ヴェトナム戦争を遂行できなかったんです。
わたしのなかでは、
ヴェトナムと沖縄の過去と現在とが、
一緒になっていたんです。

(つづきます)

2026-08-29-SAT

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