わたしは、「やさしさ」というのは
相手や問題と真摯に向き合うその姿勢だと思った。
わたしが考えていた、
わたしの「やさしさ」よりも小山内の「やさしさ」、
つまり、共感するだけよりも、
相手の向き合うべき事実を伝えた方がいい、
というような区別はあまり関係なく、
むしろそれはただの手段でしかないと思う。
手段は時代によって変わっていく。
和を乱さない共感がやさしさであるとされた時代もあれば、
長い目で見て正直に話すことが善とされることもある。
そんなものにこだわっている時点で、
わたしはまだまだ考えが足りていなかった。
相手や問題に時間をかけること。
それはつまり、考える量にも比例する。
ちゃんと考えていないのに事実だけをつきつけるのは、
きっと相手を傷つけるだけに終わってしまうし、
考えた末に、共感という手段を取ることは、
胸をはって「やさしさ」と呼べることだと思う。
考えた末の行動で、誰かを傷つけてしまうのと、
考えなしの行動で、誰かを傷つけることは違う。
わたしは、この「ほぼ日の塾 80人クラス」へ応募した際に、
応募理由の1つとして、「『やさしく』なること」を挙げていた。
「ほぼ日」の「やさしさ」を学ぶことで、
自分も「やさしく」なりたい、そう思っていた。
実際に参加してみて、「やさしさ」とは、
やはりたった数ヶ月で身につくものではないとわかった。
そして、日頃の生活で意識してみて、
「やさしさ」という感情を、
普段あまり使わないことにも気付いた。
怒りや悲しみは意識せずとも
ふつふつと湧き出てきて思い知らされるけれど、
「やさしさ」という感情については、
自分で気をつけていないと忘れてしまいそうになる。
満員電車で知らない人と肩がぶつかったとき。
自分の言いたいことがうまく伝わらなかったとき。
夜遅くまで会社に残って仕事をしなくてはいけないとき。
ふとした、心がささくれ立つような瞬間、
「やさしさ」は心の奥深くまで潜って、その姿を隠してしまう。
雨が降ったときに、晴れのありがたさを感じるように、
風邪をひいたときに、普段自分が健康であることに感謝できるように、
やさしさはそれが近くに無いときにしか気付けない
儚いものなのかもしれない。
そういえば、この課題に取り組んでいるときは、雨の日が多かった。
これから、雨の日には、
少しだけ「やさしさ」について思いを巡らせるようにしよう。
それを少しずつ身につけて、いつかわたしなりの
「やさしさ」の形を作っていこう。
今は、それで良いと思う。
(おわります。)