「打ち明け話」には、人の心を動かす力がある。
社会を変える力がある。
沢山の人の打ち明け話を、
番組を通して世の中に伝える中で、
私は確信を強めていった。
同じ経験をした人はきっと他にも沢山いる。
でも、言葉にして伝えるという選択をする人は、
そんなに多くはない。
むしろ、本当ならば隠しておきたい。
なのに、それを敢えて言葉にして伝えるからこそ、
その人の言葉に心を動かされるし、
あぁ、そんな境遇でも頑張って生きている人がいるんだと、
辛いのは自分だけじゃないんだなと思うことが出来る。
特にその内容が、辛い経験や悲しみについてだったとき。
誰にも打ち明けられずにいた、
ずっとずっと心に抱えていた孤独を、
その打ち明け話によって、重ねあえたとき。
目の前の人の生きてきた軌跡に触れられた気がして、
その人の人生を丸ごと愛しく思う。
生きるっていいな、って思う。
私は、取材相手の一人ひとりのことを、
大好きだなぁ、愛しいなぁと思いながら、仕事をしていた。

長年胸にしまっておいたことを、カメラの前で話すということ。
そこには、ものすごく勇気と覚悟が必要だと思う。
その覚悟とは比べられないけれど、
質問をする側にも覚悟が要る。
目の前の人を傷つけてしまうのではという恐怖もあった。
でも私は、カメラの横から、質問を投げかけなければならない。
「その時、どう思いましたか」
「なぜ、その行動をしたのですか」
「今、何を伝えたいですか」。
覚悟と覚悟のぶつかり合い。
そこでしっかりと打ち明け話を聞ききらなければ、
取材相手の本意が伝わらず、中途半端な言葉が
テレビという巨大拡声器で世の中に広がってしまうから。
そうなることは、一番、取材を引き受けて下さった人に対して、
失礼なこと、あってはならないことだと考えてきた。
ディレクターである私は、少しでも番組に出るという経験が、
取材を引き受けてくれた人にとってもプラスになるようにと、
伴走を続ける事しか出来ない。

たとえ夜中でも、10代の少女から「辛い‥‥」と連絡が来れば、
少女が暮らす街までいって、ファミレスで話を聞いた。
独り暮らしのおばあちゃんと、こたつでお茶を飲んで、
孫の話を日がな一日聞いていたこともある。
非効率、かもしれない。
でも、私は、人と人の繋がりが大切で、
その上でテレビの番組を作っていたかった。
そんな姿勢で仕事をしていると、
時には、他のディレクターや記者が取材を申し込んで
取材拒否をされていた取材先の人でも、
私が訪ねていって話をすると、
取材を引き受けてくれるということがあった。
「なんで、引き受けようと思ってくれたんですか」と聞くと
「三木さんなら、分かってくれそうって思ったから」と、
言って貰えることが多く、そのことが私の自信になった。
「あなただから、打ち明けようと思ったのよ」
その言葉が、私にとって、
私が私として生きる大きな支えになっていたことに、
今回、このエッセイを書いて気づいた。
「打ち明け話」が私にくれたものは
想像以上に大きそうだ。
(つづきます)
