もくじ
第1回空の色合い 2019-02-26-Tue
第2回離婚、そして外国 2019-02-26-Tue
第3回本当のところ 2019-02-26-Tue
第4回おまけの美味しい写真 2019-02-26-Tue

駆け出しの漫画原作者。連載目指して奮闘中。一人トキワ荘から脱出なるか?

私の好きなもの</br>カフェで珈琲と甘いもの

私の好きなもの
カフェで珈琲と甘いもの

担当・セキアトム

第2回 離婚、そして外国

しかし、人生とは面白いもので、私は再び横浜に住むことになった。
結婚したのだ。
何者でもなかった私は、妻という肩書きを手に入れた。
その肩書きに安心したのか、小説を書かなくなった。
 
詳細は割愛するが、数年後、私は離婚する。
 
カフェは、離婚の話し合いの場にもなったりした。
ある日、私たちはカフェで待ち合わせた。
パリに本店があるそのカフェは、
平和な日曜日の午後そのもので、
若いカップルや家族連れ、老夫婦がお茶をしていた。
青白い顔をした私は、そこに入った瞬間、
異世界にいるような気分になった。
 
やり直そう、やっぱり無理だ、いやでも・・・。
行ったり来たりする話し合いを重ねる中で、
このときの私は、なんとか元に戻れないかと思っていた。
そこで作戦を立てた。
クッキーを焼いたのだ。
それを5枚ほど、小さく包んで、彼に渡そうとした。
 
彼は甘いものより、お煎餅が好きだけど、
私のクッキーをみんなに自慢してたじゃない。
僕の奥さんは料理上手なんだぞって。
あの頃を思い出せば、もしかして。
 
そんな思いは、それはきれいに打ち砕かれた。
少し遅れて着いたカフェに、彼はすでにいた。
テーブルの上には、コーヒーと食べかけのクッキーがあった。
いつも甘いものなんて頼まないのに、
しかもよりによってクッキーって・・・
 
私は紅茶だけ頼んだ。
なんだかこの時の私には、コーヒーは強すぎて、飲める気がしなかった。
店員さんにケーキセットを勧められたが、薄く笑って断った。
 
なんの話をしたのかよく覚えていないけど、
とにかく二人の距離は1ミリも縮まらなかった。
私がそれでもと、すごすごとバックから取り出したクッキーを、
彼は「・・・もう食べたから」と受け取らなかった。
 
しばらくして離婚届を出した後、
携帯電話の家族割だかの解約手続きをするために、
私は再び彼と顔を合わせた。
かっこ悪い自分を封印し、完璧に吹っ切れている人として、
私はその場を乗りきれたと思う。
 
その後、チェーンのカフェに入った。
私の人生で、あれが彼に会う最後だっただろう、
と思いながら、私はカフェラテと何か甘いもの頼んだ。
早めの午後だったと思う。
 
初めて入った横浜駅東口のその店舗は、
パソコンに打ち込む人や、ミーティングをするビジネスマンがいた。
子連れのママの笑い声と、ときおき混じる怒鳴り声が、
ざわめきの中で際立っていた。
授業をサボったらしい制服の高校生は、
スマホで動画をつまらなそうに見ていた。
 
私はカフェがあってよかった、と思った。
まっすぐ家に帰れるほど、心は軽くなかった。
ねっとりとした薄暗いものは、短時間なら押し込めていられるけれど、
気を緩めればすぐに心を支配する。
 
いろんな人が、いろんなことを勝手にやっていた。
それが、心地よかった。
私は、よくがんばったと自分をほめたり、
突然あふれてくる涙をそれとなく拭いたりしながら、
カフェラテを飲んだ。
 
そこは、私の居場所だった。
その他の人と同じように、私は勝手に、自分のことをやっていた。
 
妻という肩書きを返却し、私はまた何者でもない人になった。
ちょっと悔しいのだが、存外にダメージは大きかった。
日本にいるのが辛かったので、私は、日本から脱げ出した。
ここでなければどこでもよかったが、
そうだ、私は甘いものが好きで、お菓子づくりも好きだったと、
財産分与で得たお金(リアルだ・・・)で、
パティシエの勉強をしようとパリに向かった。
 
友達の友達家族(つまり初めて会った)の
アパートメントに転がり込んだ。
間借りした4畳ほどの子供部屋が、新しい私の居場所だった。
英語の通じないベトナム人の奥さんと、
私を「タター(おばちゃん)」と言えず
「カカー(う○ち)」と呼ぶ3歳児(もしかしてわざとだったのか?)と、
無職の陽気なアルジェリア系のフランス人との生活が始まった。
 
しばらくしてある問題に気づいた。
パティシエになるべくパリに来たのだが、
あんなに好きだったスイーツを、
あまり美味しく感じられなくなってしまったのだ。
気が弱くなっていたついでに、胃腸も弱くなっていたらしい。
私はバターの重さに耐えられない体になっていた。
それでも、3ヶ月間、語学学校に通いながら、
カフェやパティスリーで、一生懸命甘いものを食べた。
しかし、体は正直だ。
やっぱり、食べたくない。
これを仕事にできるのだろうか? 
 
私は、違う道を探すことにした。
 
自立しなければと見つけた仕事は、
インドネシアのジャカルタにあった。
日本人ゲストの対応をするホテリエになるのだ。
新しい土地、新しい仲間。
英語には全然自信がないけど、
働いていればきっとできるようになる。
同じ部署には日本人が3人いると聞いていた。
きっと助け合いながらがんばれる!とジャカルタに着いたその日、
私の採用を決めた、営業部の日本人の女は言った。
「この部署、あなただけになるから」と。
 
色々割愛するが、ブラック企業再びである。
ホテルの一室に住む私は、24時間、いつでも呼び出しがかかる。
全てはホテルの監視カメラが見ている。
3人分の仕事を1人でこなさなければならず、
毎晩2時まで仕事をし、朝8時には次の勤務が始まる。
休みの日だって、日本人ゲストからの問い合わせがあれば、
朝5時でも部屋に電話が回される。
「トイレどこですか?」と叩き起こされても、
優しく答えなければならない。
月給は500$だった。
一年後、私はジャカルタのホテルを辞めた。
 
結局、私はまだ何者にもなれていなかった。
英語は前よりも話せるようになったけど、
ビジネスで通用するほどでもない。
日本に帰って、一人で生きていく自信がまだ持てなかった。
 
もう少し、何者かになる道を探しつづけたかった。
そこで私はカナダのモントリオールに向かった。
一度ワーキングホリデーで滞在し、とにかく楽ちんだなぁと感じた土地だ。
他人に関心がなく、人種差別も少なく、好き勝手に生きている人が多い。
フランス語圏だからフランス人の移民が多く、
おしゃれなカフェもたくさんあった。
現地の友人に相談すると、来なよ!と言ってくれた。
 
何者かになるべく、私は友人の影響で写真を始めた。
いっぱしにカフェでパソコンを広げ、
Photoshopをいじっている自分が、なんだかかっこいいと思った。
大学生の頃憧れていた、カフェの人たちに近づけているような気がした。
 
私はずっと居場所を探していたのかもしれない。
自分を受け入れてくれる場所を。
 
外国は、そもそも永住権がなければ、永遠の居場所にはならない。
ただ少しのあいだ、滞在させてもらっているだけだ。
それが心地よく、それが心細かった。
 
カフェは、そんな私のほっとできる場所だった。
フランスでも、インドネシアでも、カナダでも、
国は違えど、コーヒーはコーヒーだったし、甘いものは甘いものだった。
椅子とテーブルがあり、飲み物と食べ物がある。
スタッフがいてお客さんがいる。
私は、私の居場所を、お金を出して買えた。
どんな国でもそこには私の居場所があった。
それがカフェだった。
 
だからかもしれない。
この放浪期には、海外ならではの景色をたくさん見たのに、
妙に思い出されるのは、その土地土地のカフェでの記憶だったりする。
あの窓から見た景色。
アメリカーノから立ちのぼる湯気。
クロワッサンのバターの香り。
BGMのように流れていく外国語の会話。
孤独と安心。
食べて、飲んで、自分にエネルギーが入ってくる。
体が生きているという感覚。
 
「人類は進化しているか、退化しているか?」
大学生のときに、元夫の友人にそう聞かれ、
私は「進化も退化もしてない。人類なんて、変わらない」と答えた。
だけど、今は思う。
貨幣を発明して、そのお金で居場所を買える分だけは、
人類は進化したかもしれない。
(逆に、ダメになっている部分もあるから、
答えはあの頃と変わらないのかもしれないけれど。
それはまた考えてみようと思う。)
 
自分の居場所を持てることは、心を健全に保ってくれる。
昔、貨幣のない時代の人は、
一人ぼっちがつらい時、どうしていたのだろう。
家族や、社会の中にいるのがつらい時、どうしていたのだろう。
  
私は帰国した。
そろそろ離婚の傷も癒えた。東京に行ってもきっと大丈夫。
とにかく行けば、なんとかなる。仕事だって見つかるはず。
あれから3年、そうやって生きてきた。
 
家賃を安く抑えられるからと、東京のシェアハウスを探し始めた。
そんなころだった。
松本の知人から、知り合いのカフェを手伝ってくれないか、と言われた。
東京に行くまで、1、2ヶ月でよければ、と言った私は、
その後3年間、そのカフェと、系列店のイタリアンレストランで、
奴隷のように働くことになる。
ブラック企業最強編、松本暗黒時代が始まるのだった。
 
ここで働いている間に、
今度は精神的に「死ぬ・・・」と思ったが、大丈夫、こうして生きている。
 
詳細は割愛するが、いろいろなものを犠牲にした代わりに、
お菓子づくりと料理の腕は、格段に上がった。
 
そうして私は、東京に行くことになる。
カフェで働くのだ。

第3回 本当のところ