「なにが食べたいかな?」と考える時、
自分はどうして「なんでもいい」と言ってしまうのか。
なぜ食べたいものが思い浮かばないのか。
友人たちへのインタビューを通して気付いたのが、
彼女たちとご飯に行くとき、
最終的に場所を決めているのは、わたしだったということ。
選択肢をもらえれば、
場所や料金、料理のジャンルを考えた上で、
「ココにしよう」と決めることができるんだ。
自分からお店を提案できないのは、たぶん理由がふたつある。
ひとつめは、
自分が提案したお店がイマイチだった時に
とても責任を感じてしまうこと。
ふたつめは、
そもそも自分に「コレが食べたい!」という
強い気持ちがないこと。
だったら相手の食べたいものに合わせたい
という気持ちになる。
「コレが食べたい!」という強い気持ちがないというのは、
ひとりでご飯を食べる時も同じだ。
だから、なんとなくコンビニに行って、
「コレで良いか」と決めてしまうことも多い。
いつから食べたいものが
思いつかなくなってしまったのだろう?と考えてみると、
どうやら会社を辞めて、
フリーランスになってからだと思う。
学生の頃や、会社員だった頃は、
「今日のご飯、なに食べようかな」と考えるのが
とても楽しかった。
夕飯を楽しみに一日を過ごしていたし、
昼ごはんを食べながら夕飯のメニューを考えるなんてことも、
割とあった気がする。
しかし、フリーで働くようになってから、
ご飯について考える時間が、かなり減ってしまった。
忙しくてご飯を食べる時間がないというワケではなく、
どちらかというと、
なにを食べるか考える時間や手間を、
仕事にあてたいという感じだ。
自分の中には、本当は「食べたいもの」があるんだろうけど、
それを覚えておくための脳のメモリを小さくしてしまっているし、
考えたり思い出したりする時間を割きたくないんだ。
いま自分の中では、
仕事の優先順位の方が高くなっているのかもしれない。
だから、「なんでもいい」と言うことで
考える手間を相手に押し付けているんだなと思った。
うーん、この書き方をすると、なんだかひどいヤツのようなんだけど、
でも、そうなんだから仕方がない。
そんなわたしでも、月に1回ぐらいは
「コレがすごく食べたい!」という感情が湧き出てくる。
そういう時は、自分でもなんだか嬉しい。
「あ、こういう感情、残ってたんだ」と思う。
嬉しいのだから、考えることをめんどうくさがらず、
そこにちょっとだけ手間と時間を
かけた方が良いのかもしれない、と思った。
***
ここまで考えた後に、実家に帰る機会があった。
せっかくなので、母に「こんなことを考えたんだ」と伝えてみた。
すると、母はこう言った。
- 母
-
あんたは自分の食べたいものがハッキリしている子だったよ。
小さい頃は、意思表示もすごかったし、
食べたくないものは絶対に口にしなかったから。
そうかぁ、本来のわたしは、
もっと食べることに執着があったのかもしれない。
母はわたしが病気をした時や、落ち込んでいる時などに
「食べる力があるっていうのは、生きる力があるってことだ」と言う。
ご飯をおいしそうに食べるわたしを見て、
「あんたは食べる力があるから、大丈夫」と
何度も言ってくれてたことを思い出した。
食べる力があるっていうのは、生きる力があるってこと。
生きる力、なくなったら困るし、
やっぱり、食べることについて、もっと丁寧になりたい。
実家での夕飯、母から「なにが食べたい?」と聞かれて、
わたしはちょっと考えて、答えた。
「お母さんがつくったから揚げが食べたいな」

(最後までお読みいただき、ありがとうございました!)