もくじ
第1回あこがれ 2017-05-16-Tue
第2回再生の朝 2017-05-16-Tue
第3回命のスピード 2017-05-16-Tue
第4回大丈夫、どこまでも行ける 2017-05-16-Tue

1993年東京生まれ。一にカレー、二にあんこ、三にビール。とにかくおいしいものに目がない人です。

はなればなれに

はなればなれに

担当・柴萌子

第4回 大丈夫、どこまでも行ける

2017年の1月からこれまで、
毎日のようにノートに日記を綴った。
失恋してまずは気持ちを整理しようと思って
書き始めることになったノートは、
気づけば4冊目に突入していた。
飽き性の私からすれば驚きだ。
 
この課題にとりかかるにあたって、
ノートを読み直していた。
「あの頃の私はこんなことを考えていたのか」と
懐かしみながらも、
「おまえはバカか!」と、喝を入れたくなったり、
一方では「こんなにつらかったなんて‥‥」と、
自分を慰めてあげたくなった。
思えば、自分がこれまで築き上げてきた
プライドを根こそぎ引き抜かれた
2017年だった。
(といっても2017年は半分も終わっていない)
「もう大丈夫だ」と思ったら、
また大きな波にさらわれてしまい、自分を見失っていた。
現在地をつねに必死で求めていた。
今もそうだ。
 
ひとはよく自分を「成長した」とか、
「大きくなった」と言うけれども、
本当は、成長は生きていくうえでの最大の意義ではない。
私は、人生で得るものなんて
ほんの一握りのことしかないと思っている。
失っては取り戻し、
そうかと思いきやまた失う。
その繰り返しにしかすぎない。
だから、「成長した」とか「大きくなった」だなんて
軽はずみに言えるものじゃない。
いちばん大切なことは、どんな局面に立っていようと
食べて、寝て、お風呂に入って‥‥と、
ただひたすら生きていくことだ。生きるしかない。
大きくなることや成長は二の次だ。
 
そして、なによりも、
どんなネガティブな感情も反発せずに受け入れることだ。
ときに言葉にできない気持ちを抱くことがあるだろう。
気持ちの大半はそういうものだ。
知識では到底はかることができなくて、
頭の中よりも、そしてそれ以上の何かが知っている、
言葉にできないくらいの圧倒的な気持ちだ。
そのような気持ちはささいなところに転がっている。
特別なところにあるわけじゃない。
特別な人だけが感じることのできる能力でもない。
でも、自分が今まで置かれたことのない
状況になると、
ひとは自分を特別な存在に仕立てあげてしまいがちだ。
あたかも自分が世界の中心だというように。
だけど、本当は特別な人なんて誰もいない。
特別でないからこそ、ふつうだからこそ、
ときどき起こることや、言葉に対して
喜びや、憤りや悲しみをおぼえてしまうものなのだ。
ふつうだからこそ、
ちょっと居直ったり、ひねくれたり、
口が悪くなってしまうのだ。
ふつうだからこそ、
生きていることを許されているのだ。
 
今まで私は、
自分を特別な存在に仕立てあげていたのだと思う。
特別になれると思っていたし、
特別になりたかった。
でも、別れという修羅場をくぐりぬけた末、
自分自身を「ふつう」と思うようになった。
悲しめたり、くやしがれたり、怒ったりできる、
ふつうの人なのだ。
そして、今までよりもより一層、
「生きていたい」とか「生きている」と思うようになった。
しかし、そのようなことを実感できるようになるのは、
皮肉にも、大きな存在を失ったときなのだと思う。
きっとこの先だって、
私はもっと大きなものを失うはずだ。
そのたびに、
悲しめたり、くやしがれたり、怒ったりできる
「ふつう」の閾値が上がっていくのだと思う。
そうやってひとは強くなっていくのだと思う。
もう大丈夫だ。
 
そして、
大きな喪失と、そのあとにやってくる長い沈黙を終えて
2つの足で大地を踏みしめていることを知り、
初めて地面を蹴り上げるのだ。
そして走る。どこまでも走る。
果てしなく広がる蒼穹を背後に。
会いたい人に会いに行くために、
やらなくてはいけないことをやるために走る。
しかし、どうしても会いたい人は、
今どこにいて、今何をしているのかわからない。
距離的には近くにいるはずなのに、
地球の裏側よりも、宇宙のどこかの惑星よりも
ずっと遠くの世界にいるように感じる。
だから走るしかない。
これから先どんなことが待ち受けていようとも、
走ることがなによりも必要だ。
 
今、私には
走るための地面がようやく見えている。
これが自由の真の姿だと思う。
決心と不安を半分ずつ抱きながら、私は地面を見ている。
いったい、どこまで走っていけるのだろうか。

(おわります)