HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

15年間に及ぶ
テレビゲーム開発を経て、
「すごろくや」を設立。

丸田康司さんは、日本でも有数の
ボードゲーム・カードゲームの専門店
すごろくや」の代表取締役社長です。
ほぼ日とも長い付き合いがあり、
「生活のたのしみ展」にお店を出展してくださったり、
TOBICHIでイベントを開催してくださったり、
「ボードゲームといえば丸田さん!」
と、常にみんなが頼りにしている存在です。
でも実は丸田さん、かつては15年間も
テレビゲームの業界にいて、
『MOTHER2』『風来のシレン2』『ホームランド』
などの開発に関わっていた方なんです。
分野が違う世界に飛び込んだ背景には、
どんな思いがあったのでしょう。
担当は、ほぼ日の藤田です。

3

そうとう泣きました。

――
エイプを辞められてから、
すぐあたらしいことに取り組まれたんですか?
丸田
いえ、次に紹介されて入ることになる、
さきほどの中村光一さんの
チュンソフトという会社も、
一応はプログラマーとして入社しました。
でも、チュンソフトでは、
企画者として活躍できることが飛躍的に増えたんです。
ぼくはプログラムもできたので、
プログラマーからノーと言えない企画が作れました。
ぼくから発案されたもので
「それできません」ってことはあり得ないから。
――
プログラミングを熟知している立場から
企画をしているから。
丸田
そう。それで自分もどんどんおもしろくなってきて、
あたらしさやおもしろさを
たっぷり盛り込んだ企画ができるようになりました。
で、その間にもボードゲームで遊んでいました。
『風来のシレン2』というゲームは、
資材を組み合わせて
自分の城を作っていく要素があるんですけど、
それは完全にボードゲーム『カタン』の影響を
受けて作っています。
――
『カタン』といえば
ドイツの名作ボードゲームですね。
丸田
そうなんです。
そのころボードゲームを
輸入・販売会社していた
メビウスゲームズさんによる
毎月新作ボードゲームが送られてくるサービスがあって、
会社には毎月いろんなゲームが届いていたんです。
それが『風来のシレン2』とか『ホームランド』などの
企画にも大きな影響を与えています。
あ、そうそう、ぼくが最後に関わった『ホームランド』は
岩田さんがちょっと見に来てくれたんですよ。
――
感想とか聞きましたか?
丸田
いえ、ほんの数分間、
表面的なことをお見せしただけなので。
でも「あたらしいね」って言っていただけてたかな。
それくらい革新的なゲームだったと思ってます。
いまも遊んでる当時の子たちがいて、
いまだに続編を切望していたり、
2007年ごろ、北欧のほうの会社から、
「すごくいいゲームなので、これを自分たちで再現したい。
データとプログラムは提供されなくてもいいので、
権利だけください」
というようなお話もあったらしいんです。
――
へえー!
でもどうして『ホームランド』で
最後にしようと思われたんですか?
丸田
ホームランドの開発の終盤、
チュンソフトの業績が怪しくなってきたので、
人員整理がしたい、という話があったんです。
ぼくらのチームに白羽の矢が立って、
「いてもらってもいいけど、薄給になるけどどうする?」
ということを言われたり、
「斡旋するから、
こっちの会社に行くっていうのはどうだ?」
という話もあったりして。
でも、ぼくとしては、チュンソフトといえば、
会社のゲームが好きな、
非常に高度な技術者が集まった総本山。
憧れて来てる人たちが集まってきているのに、
それをやっちゃだめでしょう、と思っていました。
丸田康司さん画像
――
それくらい逼迫していたんですか。
丸田
『ポケモン不思議のダンジョン』とかも
作りかけていたけど、
おそらくこれも売れないだろうし、
先行きの見通しがない状況だったと思うんです。
でも、なんとその後、
その『ポケモン不思議のダンジョン』が大ヒット。
あんなにたくさんの人が辞める必要は
なかったんじゃないかな、と思いますけど。
で、ぼくも他の人と同じように
別の開発会社に転職して
テレビゲームの開発を続けるかどうかを考えはじめました。
でも、その前にそうとう泣きましたよ。
――
ああ‥‥。
丸田
『ホームランド』では、
いろんなものに応用できるような革新的な
ゲーム要素や開発基盤を山のように作ったんです。
なんだったら、『風来のシレンシリーズ』は、
そのシステムを使うことで
オンラインでの展開もできるぞ、
という未来のことまで考えて作ったゲームだったんですけど、
それでも結果はこんな感じかと思って‥‥
まあ泣きましたね。
でも、どうしようかなと悩みつつ、
他の人たちがテレビゲームの会社に行くなかで、
自分は全然違うこともありだな、と思ったんです。
――
全然違うこと。
それがつまり、今の。
丸田
はい。ボードゲームです。
自分がいちばんうまくやれて、しかもやりたいこと、
というのを考えているうちに、
ボードゲームのお店を主体にして
事業を広げていくことができるんではないかな、と。
お、これはなかなかいいぞ、と思って。
――
まずはどんな動きをされたんですか。
丸田
まずはさきほどのボードゲームの輸入販売会社、
メビウスゲームズさんのところに
通いはじめました。
無給でいいから少しの間働かせてください、
と言って押しかけて。
何度も断られましたけど。
――
断られたんですか。
丸田
もちろんもちろん。
濃いボードゲームファンは当時からいましたので、
そういう人がいっぱい来るんですよ。
メビウスさんにしてみたら、
前例がないところから開店し、長年苦労されてきて、
それこそ最初は利益が全然出ないからって、
写真の現像とかクリーニング店みたいなことも
並行してやって、どうにかやってきた、
というところに、新たにお店をはじめたい、なんて
正気の沙汰じゃねえ、大変だよ、ってね。
だけど、ぼくもゲームに対しては
全然ド素人じゃないわけですし、
自分が考えていることお話しているうちに、
根負けされたのか、
「じゃ、ちょっとやってみる?」と、
なんとかお手伝いをさせていただけることになりました。
そういうこともあって、
メビウスさんには今も懇意にしていただいてます。
で、2006年の4月にぼくは
「すごろくや」を立ち上げました。
――
そういう経緯があったんですね。
新しい分野に飛び込むことに
不安はなかったのでしょうか。
丸田
ぼくも学生のときは、漠然と
仕事場というものは基本的には変わることなく、
一生同じところにいるものだ、と思っていたわけです。
でも、そんな考えが変わるような影響を
何人かから受けました。
もちろん糸井さんからも受けましたし、
あとはマーカス・リンドブロムさんという、
『MOTHER2』の英語版である『EarthBound』の
翻訳をされた方の存在も大きかったです。
彼はもともと日本で英語の先生をしていて、
MOTHER2の情感を保って翻訳ができる人でした。
たとえば、「アルプスのしょうじょ 〇〇ジ」
というセリフが『MOTHER2』のなかに出てくるんですが、
「はい」「いいえ」の選択肢があって、
「いいえ」を選ぶと
「『アルプスのしょうじょイイエジ』ってことはないだろ」
というメッセージがでてくるシーンがあります。
彼はその英語版をビートルズの名曲
『〇〇〇terday』に置き換えて、
「YES」「NO」の2択で答えてもらうように
翻訳しているんです。
丸田康司さん画像
――
「イエス」タデイ!
すごい。
世界観を理解されたうえで
翻訳されているんですね。
丸田
そう。当時『EarthBound』に触れた海外の子たちが
今ウェブサイトを立ち上げて、
あれはすげえおもしろかったね、って
盛り上がってるんですけど、
マーカスはそのテキストを書いた人なんです。
彼はNintendoアメリカに所属してたんですけど、
ある日、新聞記者をやると言って辞めるんです。
彼から、人生においての職歴の多様さについて、
「そういうことでいいんだ」と影響を受けました。
だから、ボードゲームの店をはじめることに、
特に大きな躊躇はなかったです。
ただ、周りからは理解されなかった。
自分としては店だけをやりたかったわけじゃなく、
総合事業としての軸を店に置こうと思っていたんですけど、
「あいつは有能な開発者とされていたのに、
急におもちゃ屋をやるらしいぞ」って(笑)。
――
(笑)
しかも、まったく電気を使わないゲーム。
丸田
そうそう。はたから見ると、
今までの技術はどうするの? って思いますよね。
店先でニコニコ座ってる好々爺になりたいのかな、
と思われていたかもしれません。
でも、真逆なんです。
自分が持っている技術を注ぎ込める場所が
作れると思っていたし、
ウェブサイトの展開も含めて
どうなっていきたいか未来が描けていたので。
まず店というものが軸にあって、
そこから各方面に発信できる会社にしていきたい、
というビジョンがありました。
それは今「すごろくや」で半分くらい実現できていると
思っています。
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