飯島食堂へようこそ。 荻上直子さんと、 『トイレット』のごはん。

その7 写真も書も陶芸も映画も。
糸井 石元泰博さんというひとの、
桂離宮のモノクロの写真集(*)を見たんです。
横尾忠則さんがいいって言ってたんですね。
横尾さんがそういうオーソドックスなものを
いいって言うのって
どういうことなんだろうなって思って、
取り寄せてみたら、やっぱりいいんですよ。

『石元泰博 桂離宮』六燿社
荻上 へえー!
糸井 その、いまのその書の理屈を知ってから
わかったんですけど、
カメラの目が、
その場に立つまでの時間っていうのが‥‥。
荻上 ええっと、すみません、
もう一回おっしゃってくださいますか。
── カメラの目が?
糸井 カメラの目玉が、
ある建物とか庭に立って、
安定するまでの時間が。
想像できるんですよ。
荻上 ええーっ?!
糸井 桂離宮をモノクロで撮りに行って、
自分は任されてるってなったら、
迷いもあるし、気負いもありますよね。
構図、決まらないな、っていうのもあるし、
いろんなことを、向こうから問いかけてくるし。
そんな長ーい道のりが
1枚ずつにあるんです。

あの枚数の写真を
どのくらいの時間でどう撮ったか
わかりませんけれど、
お天気の具合からなにから全部あって、
外したいけど外せないなとか、
1枚ずつ、全部物語ってるんですよ。

このあたりは早く済むんだろうな、
みたいなところもある。
それはなにかっていうと
みんなが想像する美意識と、じぶんの美意識と
桂離宮が表現しているものが、
わりとかんたんに重なる場所があるんです。
見方によってはモンドリアンに見えますよね、
みたいなところが。
そこはいちばんいい顔してるところで
「撮ろう!」っていう感じなんで、
スッといくんです。

で、そうじゃないハンパな場所が
いっぱいあるんですよ。
それを撮るときの写真家の自負と誇りと
マッチョな気分もあるだろうし、
それがねえ、おもしろいんですよ。

ぼく、初めてそういうことがわかった。
自分が撮る写真っていうのは
スナップばっかりだから、
スナップと写真のちがいがほんとうにわかった。
これから映画を観るときも、
変わるような気がする。
‥‥ちょっとこの話は
ひとりしゃべりになっちゃうね。
荻上 いえいえいえいえ。
いまとてもおもしろかったのは、
いま、泊まっているあの子
(モーリー役のデイヴィッド・レンドルさん)が
ほんとうは絵描きなんですね。
そして、じつは昨日、
そういうようなことを言ってたんです。
最初のこの筆のストロークがどうなのかとか、
2番めのストロークはどうなのか、みたいな。
もちろん全体もなんですが、
いっこいっこのストロークに、
作家の意思がもちろんあって、
みたいなことを言っていて。
糸井 「わたしとあなたの間には愛がある」
っていうのは、ことばとして観念ですから
記号的に言えますけど、
じゃあどこにあるんですか、って言ったら
ないわけですよね。
見える見えないにかかわらずの
やりとりのなかとか、
あるいはそのじぶんの心の動きとかに、
愛の正体っていうのはあるわけで、
そうすると、いまのその
筆の動きとか、ストロークってことも、
そこに起こった事件だと言えるわけで。
それをあじわったひとが、
じぶんも似たものをもっていたら、
音叉と音叉が共振するように
鳴りだすんだろうな、っていう。

その見方で考えると
さっきぼくが冗談めかして言った
ハリウッドにおける
日本人のおかしさっていうのは、
そこにその分量のセリフが
そういう役割でほしかったという機能じゃなくて、
コミュニケーションの話でね。

アメリカ人は機能と機能で
やりとりしてるし、
なんなんだ、言ってみろよ、
って言うじゃない。
荻上 はい、はい。
ものすごい合理主義なところが。
糸井 それは機能ではない、
ほんとうに重要なのは
アンチコミュニケーションっていうか、
コミュニケートしないところで
起こっているものなんですよね。

荻上さんだったら
いまぼくが考えているようなことと
共通することが
いっぱいあるんだろうなと思って。
へんにマジな話になっちゃったけど。
荻上 (笑)
糸井 たぶん料理でもそういうところが
あると思うんですよ。
さっきの、「飯島さんがつくると
なにがちがうんでしょうね」っていうのも、
筆がちがうんですよ(笑)。
荻上 はい(笑)。
絶対そう思います。
糸井 飯島さんも科学者なところがあるから
分量と時間とで
だれでも再現できるように
レシピをつくっているんだけど、
AからBに動くときの
その“なにか”については、語れない。
荻上 はい。
“なにか”が、ちがう‥‥。
糸井 と、思うんだ。
映画の話につなげて言うと、
『トイレット』っていう画集があるとしますね。
最後のシーンのタブローが1枚描けたら、
2枚めが連作になって、さらに、
「これはとっても大事なんだよね」っていう
トイレのドアがあって、みたいな、
そんな連作の画集を時間のなかにおいておく。
そうすると、キャストも動いてくれる、
それが荻上さんの映画ですよね。

荻上さんの映画について、
「なにが言いたいんですか」と言われたら、
ないことはない。
ないことはないんだけど、
ほんとうはもっと
“言わないこと”をのせて、
描いているんですよね。
荻上さんって、無口なんですか、ふだんは。
荻上 あっ、すいませーん! ごめんなさい。
ほんとうに申しわけないです。
糸井 いやいや、そうじゃなくてね(笑)、
酔っぱらうと、っておっしゃったから。
飯島 ビールでもどうですか?
荻上 だいじょうぶです!
糸井 いまは、じゅうぶん、
ちゃんとしゃべってくれてるよ。
荻上さんは
ふだんはだまってひとりでいる時間が
長いってことですか。
荻上 はい、それは長いです。
思春期に、母親と姉の両方から
「あんたと一緒にいても
 ほんとつまんない」って
言われたことがあって(笑)。
ものすごい妄想癖があって。
いろんなことを妄想してるんですけど、
だまっちゃうみたいで、その間。
だからまわりのひとは
つまんないみたいです(笑)。
糸井 たぶん、
だまっている時間に育っているものが
大きいんでしょうね。
荻上 でも酒飲むと
ほんとになにやらかすかわかんない、
みたいな感じで、
そそうをいっぱいしてきました。
糸井 いまの書道の話の前に
ぼくが頼りにしてたのは
「芸術の根と幹は沈黙である」。
吉本隆明さんなんです。
花とか葉っぱとか枝振りとか、
そういうものは表現として見えやすい部分です。
でも重要なのは、実は幹と根っこで、
他が全部枯れてしまっても
幹と根っこが生きていれば
それはそのもの自体をいつでも表せるわけで。
そんな話がベースになった考えなんです。
ですから、まだことばにならない、
体温だとか内臓の動きだとかを含めた
“沈黙”っていう部分を
どういうふうに育ててきたか、っていうのは、
テレビやなんかにはもうないわけですよね。
荻上 はい。
糸井 思ってるんだったら言えよ、ってなる。
枝振りとか花の部分に
改良をくわえていく文化も
もちろんあるわけだけど、
なにも咲いてないけれども、
幹が魅力的で、
根っこがすごいものっていうのを見たら、
やっぱり圧倒されると思うんですよ。

「芸術の根と幹は沈黙である」という
吉本さんのことばと、
書道の話がぼくのなかで
右手と左手が合わさるみたいになっちゃって、
鑑賞者としては
忙しくてしょうがなくなっちゃった。
つくり手としてはどうかというと
ちょっとなやましいとこなんだけれど。
荻上 はい。
糸井 ただボーッと生きていくっていうなかに
根っこを表すような時間っていうのが、
もしかしたらあるかもしれないんで、
職業として芸術家をえらぶんじゃなければ、
これから先なにを表現しようかとか、
思う必要もないのかもしれない。


(つづきます)

2010-08-31-TUE

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