飯島食堂へようこそ。 荻上直子さんと、 『トイレット』のごはん。

その6 これでいいのだ。
飯島 こちらしょうゆと黒酢です。
けっこう中のお肉に味がついてるので
もしよかったら
黒酢だけつけて食べてみてください。
糸井 はあい。
(黒酢を皿にとり、餃子をちょっとつけ、
 そのままパクリ)
‥‥おいしいんとちゃうーん!
(ふと冷静になって)
別の国のことばだけだって、
いいなあできてるなあって思えるっていうことについては
あの映画観てる最中でも考えてたんだけど、
監督が確信があったんでしょうね、きっとね。
(そして突然大声で)
おーいしーーーーーっ!
── 話の流れが完全にむちゃくちゃだ(笑)。
糸井 いままでのとまたちがう!
荻上 おいしー!
糸井 日本で食べたことない。
中国人が外国でつくったみたいな?
飯島 五香粉とねぎ油も入ってます。
荻上 へえー。
ちがーう。
糸井 おーいしー。
日本中の餃子がこれになるのはこまるけど、
ちょっとふつうじゃないんですよね。
スカートはいてんのよ!
一同 (笑)
荻上 そうですよね!
スカートはいてます。
糸井 (また映画の話にもどって)
ぼかぁ、あの子が好きだなあ。
ほら、あそこで、ああなって、
こうなったシーン‥‥
よかったよね、しみじみしちゃう。
‥‥よかったよねえ。
荻上 おいしい。
糸井 ねえ。
黒酢でもいってみよう。
荻上 さっきのお人形遊びですけど、
映画がお人形遊び以上のものになるのが
おもしろいっていうところがあって。
想像で書いていて
その想像をどんどん画にしていって、
だけど、やはり生身の人間と
一緒につくっているわけですから、
いろんなひとの要素や才能が出てきて、
想像以上の、全然ちがうものになったりするのが
またすごくおもしろいところなんですね。

糸井さんがよかったとおっしゃってくださった箇所、
ほんとうは笑わせようと思って
書いていたんです。
糸井 え?!(笑)
荻上 それがああいうかたちになって、
ええ?! こんななったんだ、って
じぶんでもすごくビックリして。
それがすごくおもしろい、
やっぱり映画づくりのおもしろいところって
こういうところだなあって。
糸井 つまり、ドタバタしちゃう、
っていうところで脚本はできていたんだ。
荻上 はい。
糸井 いいねえ、そりゃおもしろいでしょうねえ。
で、監督の性格によっては
ドタバタで笑えるシーンにならなかった、
ってことでもっと追求して、
なんとか脚本にちかづけたいと思いますよね。
荻上 もちろんそういうひともいると思います。
糸井 そうじゃなったわけですよね。
これでいいのだ、と。
荻上 はい、これでいいのだと。
糸井 おもしろーい。
信じられない、いまじゃ。
おっしゃってることはわかりますけどね。
(また皿に目をやって)
米食っちゃおうかな。
餃子も食っちゃおうかな。
まいったなあ。
聞いてもわかんないね、
このエキゾチックな?
荻上 なかなか‥‥うん。
糸井 初めてですよね。
── (餃子がどうも
 エキゾチックな風味らしい‥‥)
飯島 さっきの鶏でスープをつくりました。
荻上 ええー、おいしそー。
糸井 (さっそく口に運んで)うまーい!

こないだ、書家の講演を聴いたんですね、
中国の行書っていうスタイルの
有名な巻物があって、
それの鑑賞の仕方をお話ししましょうと、
そういう講演だったんですけど。
まず、書は絵とはちがうんだと。
で、かたちを見るものじゃないんです、
ってところから始まるんですね。
荻上 へえ。
糸井 そう言われてもやっぱり
かたちを見るくせっていうのが
みんなのなかに残ってて、
書のことについて
いろいろ語ってるひとでも
やっぱりかたちを語ってるケースって
ものすごく多い。
じぶんのなかにもその要素は
ずうっとたぶん、
いまでもたぶん残ってると思うんですけど、
「かたちを見るもんじゃない」と
その書家は言うわけです。

じゃあどう見るのかというと、
始めがあって、途中があって、終わりがある、
っていう一本の線を、
どういう角度で、
どういう勢いで筆が入って、
どういう速度でどういうふうに動いて、
どんなふうな意志で
次を考えて、終わって、
また次の線があってっていうのを、
筋肉の運動として、
行為としてなしていったかっていうことを、
たどるものなんだと。
「筆触(ひっしょく)」って
言い方をするんですけど、
その筆触をたどるっていうことが
鑑賞なんだ、って。

しかも、かたちだけじゃなくて
意味も関係ないと言うんです。
友が遠くから来た、
っていうことの意味も
書とは関係ないと。
荻上 書かれたことばの意味も関係ないんですね。
糸井 関係あるのは、かたちでも意味でもなく、
筆触をたどること、
なぞることなんだ、とていうのを聴いて、
感動しちゃったんですよ。
そうかもしれないと思っていたことを
まとめて、自信をもって語られたら
うれしくなっちゃって。

ようするに、ぼく流に言い換えると、
どんな事件がおこったかっていうのを
透視することなんですね。
それがわかっちゃったっていうか。

なによりもその後のじぶんの
いろんなものを見る目が変わっちゃって。
その後、陶芸家の
ルーシー・リーっていうひとの陶芸を
見に行ったときも、
いままでかたちだけ見ていたものが
その陶器が立ち上がるところが
想像できたんです。
たぶんあんまりちからのない、
晩年の作品なんか、
そこにあるちからを
コントロールする精神みたいなもの、
見てるとわかるような気がするんですよ。

それを追体験できるような気がして、
そんな見方をしていると
疲れちゃうんですけど、
すくなくとも意味でもなければ
かたちでもない、っていう
人間の行為を追うっていうところに
共振するなにかがあるんだっていう理屈を
身につけてしまったら、
ぼくのなかでも
いままでは、いいと思ったことの正体が
見えたような気がして、
すっかりおもしろくなっちゃったんです。

で、たぶん映画も、
ちょっとそういうところがある。
計算で全部ブロック組み立てるみたいに
つくるひともいるんだけど、
この流れのなかで
それに身をまかせたらこうなるんだ、
みたいなところでは
やっぱりそれはお客さんにも感じ取れる。
「よかったー」っていうのは
主題じゃない、と、いう見方ができる。

そうすると、荻上さんの映画はもう
典型的に主題じゃない作品(笑)。
「愛は尊い」なんてことは
ひとつも言ってないわけで。
荻上 ‥‥(箸をとめて、熟考)。
糸井 だれでも引き寄せたいような主題で
映画をつくるひとっていうのは
やっぱりいるんですよね。
そのほうが商売にもなるわけでね。
けど、そうじゃなくて、
「やりたかったんだ」ってことの
踊りのような動きっていうのが
ほら、伝わる! っていうか。
1週間くらいその目で生きてるところで
今日、だったんです。

だから「脚本ではこうだったんです」とか、
外国人の演技を
ことばの意味がわかんないのに
できてるってわかる話とかをお聞きして、
また、ちょっと意をつよくしました。
なにを言ってるか、じゃないんですよね。
荻上 そうですね。
  (つづきます)

2010-08-30-MON

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