2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.141

「なんでやねん!」の創造力

 『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』(朝日新聞出版)をおもしろく読みました。こういう先生と一緒に学べたら、きっと子どもたちはのびのびと、たくましく育つだろうなと思いました。

gakucho

 著者のウスビ・サコさんは、西アフリカのマリ共和国生まれ。6年間の中国留学を経て、1991年3月に来日。京都大学で博士号(工学)取得の後、2001年春、京都精華大学の講師になります。そして2018年、初めてアフリカ出身者として、日本の大学(同大)の学長に就任します。

 まだお会いしたことはないのですが、とても見事な日本語を駆使する人だと聞いています。本のなかにも頻出する「なんでやねん!」「ええやんか!」をTPO(時・場所・場合)に応じて完璧に使い分ける関西弁の達人だとも聞きました。

 日本人、日本文化への並々ならぬ探究心のたまものだろうと思います。そもそもなぜ日本に関心を持つことになったのか、といえば、中国に留学していた1990年夏に、たまたま友達を訪ねて来日したことがきっかけです。

 それまで、日本は「謎の存在だった」というサコさん。中国に来ている日本人留学生たちの印象は、「電化製品をいっぱい持っていて、いつもレトルトカレーを食べている」というもので、

<「スープが飲みたいな」と言うと、すぐにパックが出てきて、お湯をかけてあっという間にできあがる。
 何やら「カイロ」とかいう携帯用の暖房グッズも持っている。(略)
 とにかく人工的に作られたものを好んで使っている日本人。きっと、合理的、機能的に作られた工業製品に囲まれて暮らしているのだろう。>

 くらいに思っていました。そして、いつも「人から逃げよう」としている人たちに見えました。

<日本人同士で固まって、他国の留学生と関わろうとする人は少数派。中国に留学しているのに、日本人だけのパーティや飲み会をして、なるべく他の国の人と触れ合わないようにしている。何のために来たのかよくわからない。それがある種パターン化していて、日本人みんなが同じような感じに見えていた。>

 ところが、船で大阪港に到着してみると、実際は大いに違っていたのです。いろいろな日本人が歩いているし、友達の家に泊まると、さらに印象が変わります。

<お父さんはパッチ(ステテコ)一枚で、だらしなく過ごしている。お母さんはビールを一杯ひっかけて、わけのわからんテレビを見て「あっはっは」と大笑いしている。
 パターン多いやん。面白い。
 日本にもこういう明るい社会があり、社会性や地域性やコミュニティ感覚があって、人懐っこい人間たちがいる事実を、初めて確認した。>

 それがきっかけで1991年3月に来日し、まず日本語学校に入学します。ところが、教わる内容が易しすぎる上に、「あまり使えない日本語」だと思えます。

p48
1991年3月、来日初日。大阪国際空港(伊丹空港)

<一生懸命勉強しているはずなのに、電車の中で乗客の会話を聞いても、何を言っているのかさっぱりわからない。
 会話文の最後には、いつも「やんか」がついている。「やんか」のことを知りたいし、「やんか」を使ってしゃべりたい。
 「お茶しばく」も「ナンパ」も、どうやら生存のための大事な言葉らしいのだが、これまたわからない。
 「先生、超大事なこと忘れてんちゃうか」
 そんな私の疑問も、スルーされてしまう。
 こうなったら独自に勉強するしかないと、私は奮起した。>

 ここにサコさんの真骨頂が見られます。

 「生存のための大事な言葉」――この疑問をまっすぐにぶつける率直さ、教えてもらえないなら自分の力で取りに行く、という狩人のような探究心。問題解決のためのアイディアと、“自由”を獲得するための行動力。

p87
ゼミ生とマリ共和国に視察旅行

 つくづく問題解決型の知性の持ち主だと思います。サコさんを特徴づける強さです。

 わずか半年後に、京都大学に研究生として入学します(日本語学校の先生たちは驚いたそうです。そりゃそうでしょう!)。92年春、京大大学院の修士課程に入学。博士号(工学)を取得した後、2001年、京都精華大学の講師に就任。そして人文学部の再編を手がけるなど持ち前の行動力を評価され、2018年、同大の学長に就任します。

p105
2017年8月、学長就任時の記者会見

 この本は、「サコ、異文化に出会う」「家庭を持つ」「教育を斬る」「大学を叱る」「日本に提言する」など、テーマは多岐にわたりますが、それらを貫くサコさんの信念には、芯の強さとともにしなやかさが感じられます。

<私が日本に来て一番怖かったのは、この日本社会は、どこに「オン」と「オフ」があるのかがわからないことだった。ずっと「オン」にしっぱなし。学校も家も社会も趣味も、全部「オン」。
 趣味といったら、まるで専門家のような勢いになるので、ビックリする。
 「映画を見るのが趣味で」と言ったときには、映画オタクが近づいてきて、○○監督のあの作品のこのアングルが、撮り方が‥‥って、うんちくを垂れてくる。
 なんやねん! 知らんわ!
 こっちは、軽い気持ちで映画を楽しみたいねん!>

 つまり、何かにつけ、一律のフレームの中でやっきになって取り組む人たちが多すぎるのではないか。やる以上は徹底的にやらないと収まらない。ハンパな興味を持つくらいだったら、そもそも関心を示すな、と言い出しかねない過剰なストレス社会への違和感です。

 遊びが遊びにならず、生真面目で、融通がきかない。「雑」なところが許されず、とかく本気になり過ぎる。そういう狭量なメンタリティーに怖れと危うさを感じます。

<果たして日本人には、本当の意味でだらだらしたり、何もしないでボーッとしたりする時間はあるのだろうか。>

<だらだらできないような国民性。常に将来につながることをやっていないとダメだという空気。何かの役に立っていなければ生きられないようなプレッシャー。就職が全てだという思い込みや、社会のシステム。それらのことと、引きこもりや自殺というのは、全てつながっているのではないか。
 日本人よ、もっと肩の力を抜こうぜと、私は言いたい。>

「もっとだらだらしろ」と叱る学長は稀有(けう)です。日本人の「協調性」についても指摘します。

<日本人の間には、「人に迷惑をかけたらあかん」という文化がある。
 一方でマリには、「どれだけ迷惑をかけ合えるか」が重視される組織がある。グレン(GRIN)という青年団だ。>

 グレンの基本は、ホンネの付き合い、という点です。あたり障りのない付き合いではなく、ぶつかっても、ケンカしても、また仲直りできるという関係です。「迷惑をかけてなんぼの世界」だというのです。

 ともかくグレン文化で育ったサコさんには、日本人の「迷惑をかけない」というマナーが「不思議でたまらない」と映ります。

<仲間同士なのにいつも遠慮しているし、いつ仲間になるんやろうなと思いながら見ている。本音を言い合える関係でなければ、「この人は本気で私のことを思ってくれている」ということにはならないと思うのだが。
 私はそこだけは譲りたくないし、「日本化」されたくないと思っている。あなたのことを思うからこそ、自分の気持ちをちゃんと正直に言う。(略)表面的にちょっと褒めるようなことは、絶対にしない。
 私が日本に来て最初に苦労したのは、この部分のギャップだった。>

 「人に迷惑をかけられない」という内面の縛りは、悩める人の孤立感を深め、問題を潜在化し、社会に息苦しさをもたらします。そういう実例を、最近は見聞きすることが増えました。

 「この人がしてくれた、こんな話」の第1回にも、「勇気っていうのはね、他人に助けてって言えることなの」という言葉がありました。「弱っている時は、誰かの力を借りてもいい」が当り前でないような社会は、どこかで方向を転換しなくてはなりません。

<日本には、衝突を避けたり、協調しないとダメだったり、という文化もある。それは実は、「協調性がない」ということではないかと、私は思うのである。
 「なるべくぶつからない」とか、「できるだけちょっと避ける」とか、「意見を言うとあの人は傷つくから言わない」とか、「何かごまかしたり見て見ぬ振りをしたり」というのは、その人に対して誠実ではない。単に、表面的に協調しているようにとりつくろっているだけではないか。
 私にしてみれば、「空気を読む」というのは、本当の意味でも協調性を否定することに思えるのだ。>

 こんな熱い指導者ですから、「サコゼミはやばい」が定評だったとか。「夜通しの面談」をやるのです。

p167
2人の息子さんたちと(自宅で誕生日会)

<ゼミで最も大切にしていたのは、一人ひとりと向き合う時間をつくることだ。私のゼミ面談はやばい。
 何がやばいって、研究室で夜九時から朝まで、夜通し面談をするのだ。>

 オールナイト面談! びっくり仰天の話です。

<別に夜中にしなくてもいい、というのは確かにその通り。
 それなのにどうしてそんなことをするのかというと、卒論作成のために、朝まで頑張ろうとする学生たちを、私は全力で支えたいし、学生たちを失望させたくないからだ。
 「先生は二十四時間、いつも私のことをサポートして聞いてくれてる」と伝わることで、学生たちの姿勢は変わる。>

 とにかく元気で行動力のある学生たちが、次々とサコゼミには集まります。バラエティに富んだ、十人十色の学生たちです。「サコゼミ文化」が築かれます。

 ただ、こうした個性を「築いたのは私ではない。学生たちだ。彼らが、私という人間を使って新しい文化をつくっていったのだ」と、先生は語ります。

 また、親しさと甘えは別のものだとも。「学生たちからは、私の成績のつけ方は厳しすぎると言われることがある。けれど、厳しくすべきところはあるし、全て優しくすることが学生のためではない」と明言します。

 「信頼関係」がキーワードです。どうやって学生たちとそれをつくるか。自分の中の課題でもあり、大切にしていることだと語ります。

p202
留学生を集めた自宅でのパーティ

<信頼関係があれば、お互いに迷惑をかけ合うシステムができるし、許し合うシステムもできる。>

 京都精華大学の教育理念には「自由自治」が謳われています。この時代の「自由」を捉え直すことこそ、自分が「最も大事だ」と考えている問いだと、学長は述べます。

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<日本に来た当初の私は、この国で外国人として暮らすのはとても不自由だと感じていた。自分を自由にするにはどうすればいいか、自分で考えた。(略)自ら、不自由を自由に変える努力をした。>

 サコ先生には一度お会いしてみたいと思います。会って、話を聞きたいなぁと思います。

<教育は何のためにあるのかというと、個人を幸せにするためである。>

<本当の意味で自分を幸せにするには何が必要か。子どもたちを幸せにするものは何か。社会を幸せにするものは何か。考えることを放棄せず、立ち止まってみれば、きっと見えてくるものがあるだろう。>

 そして、力強く断言します。「私たちはまだ、教育をあきらめるべきではない」と。

 「なんでやねん!」のツッコミと、「ええやんか!」の包容力に、この人の「知」のかたちを感じます。

 

 

2020年10月22日

ほぼ日の学校長

*本文中の写真は、ウスビ・サコさんよりご提供いただきました。