2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.92

「身の毛もよだつ話」

 「ほぼ日の怪談2019」が、いよいよきょうから、はじまりはじまり(太鼓がドロドロ、竹やぶがザワザワ)。昨年刊行された『ほぼ日の怪談。』(ほぼ日文庫)のkindle版もリリースされました! 

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 そこで、「怖い本を5冊セレクトしてもらえないか」という注文が「怪談」の担当者からありました。近々コンテンツにしたいというのです。

 こういう企画は、つい力が入ります。これまで読んだことのある本の中から“ベスト5”を選ぶくらいの気合が入ります。

 何が一番怖かったか。思い出すだけでもゾッとするような小説を、まとめて立て続けに読み返しました。とびきり怖い小説だけを、です!

 すると、人はどうなるか。ご想像の通りです。

 昼間でも小さな物音にビクッと怯(おび)え始めます。夜ともなれば、物陰に誰かが潜んでいるような気配を感じたり、窓にあたる雨の音すら不気味に聞こえます。思わず、ドアのロックを確認します。でも、壁をすり抜けてきたら、どうする?‥‥。

 神経が過敏になって、まわりの人たちが得体の知れない生きもののように見えてきます。よりすぐりの傑作ばかりを読むのですから、効果はテキメンです。

 再読なので、ストーリーも結末もあらかた覚えています。長い作品だと、途中で飛ばし読みしたくなるかと思いきや、いつの間にかぐいぐい引き込まれ、終わりの近づくのが切なくなります。しかも怖い!

 5冊の話は、いずれ「ほぼ日」サイトに載る予定なので、今回はこのあたりで切り上げておきます。ともかくこういう「怖い小説」の集中読書は初めてでした。皆さんにも一度はお勧めします。二度やる必要はありません。

 夏休みといえば、小さい頃の楽しみは「納涼お化け屋敷」に出かけることや、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』(新潮文庫)のような探検ごっこ――あれは「死体を探しに行く」2日間の旅でしたね。私の悪ガキ時代は、夜、洞窟や墓地に集まる“肝だめし”――を、仲間と連れ立ってやることでした。

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 臆病なくせに、なぜかやりたくなるのです。わざわざ「恐怖」の中に身を置きたくなるのです。ところが当時、どうしても怖くて、怖くて、見ることのできないテレビ番組がありました。1961年7月4日から10月3日まで、夏場の納涼番組として、週に1回、日本テレビ系列で放送されたテレビ映画「恐怖のミイラ」です。

 ちょうど小学2年生の夏でした。人気番組「月光仮面」を作った宣弘社の制作です。その頃はまだテレビ自体がめずらしく、白黒放送の時代です。町全体もまだ暗く、夜は物騒だというのが“常識”でした。

 番組が始まり、オープニングのメロディーを聞いただけで、心臓がギュッと縮み上がります。怖すぎです。

 ジャーンと陰鬱な音楽が鳴り、コツ、コツというゆっくりした足音が人気のない夜道に響き、「ああああ~」という女性の不気味な歌声が流れると、建物に沿って大きな人影が動いていきます。そして音楽がまた鳴り響き、連続テレビ映画「恐怖のミイラ」というタイトルが浮かんだ瞬間、もうダメ! テレビのスイッチを切ってしまいます。

 次の週はもう少し頑張ろうと自分を励ましますが、タイトルに続く場面、コツ、コツと歩いてきたトレンチコートの男に会うなり、顔を見た女性が「キャアー」と悲鳴を上げて倒れます。もうダメ!

 ついに怖くて、その先を見ることができませんでした。結局3回くらいで断念しました。そんな怖がりのくせに、電灯もつけないうす暗い部屋で、なぜかいつも一人で膝をかかえて、画面に向かっていたのです。

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 海外もののドラキュラ、狼男、フランケンシュタインももちろん怖かったのですが、この「恐怖のミイラ」は別格でした。近所のさびしい通りに、いまにも出てくるような気がしたからです。

 なんであんなに怖かったのかと、数年前に4巻セット(完全ノーカット版)DVDを買いました。オープニングはYouTubeで見られるようになっていましたが、全14回を見届けたいという探究心(いやリベンジ魂)のなせる技です。大枚1万500円をはたきました。

 エジプトから持ち帰った4000年前のミイラが蘇り、夜な夜な街を徘徊しては、殺人を繰り返すというストーリー。いま見ると、首をかしげたり、笑い出しそうな場面だらけですが、DVDケースには「昭和30年代、TV創世記に視聴者を恐怖のどん底に叩き落とした傑作和製ホラー!」と謳われています。日本中を震え上がらせた伝説の番組だったのです。

<私は子供の時から人並以上の臆病者であったらしい。しかし私はこの臆病者であったということを今では別に恥辱だとは思っていない。むしろかえってそうであったことが私には幸運であったと思っている。>

 これは、物理学者で随筆家の寺田寅彦の文章です(「こわいものの征服」(「家庭の人へ」より)、『怪異考/化物の進化』所収、中公文庫)。

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 子ども時代に雷鳴、地震など、超自然的な力が猛威をふるうことへの本能的な恐怖におびえた体験が、のちに科学者の「恐いもの見たし」の好奇心となってプラスに働いたのだと述懐します。

<昔の人は多くの自然界の不可解な現象を化物の所業として説明した。やはり一種の作業仮説である。雷電の現象は虎の皮の褌(ふんどし)を着けた鬼の悪巫山戯(わるふざけ)として説明されたが、今日では空中電気と称する怪物の活動だと云われている。空中電気というと分ったような顔をする人は多いがしかし雨滴の生成分裂によっていかに電気の分離蓄積が起り、いかにして放電が起るかは専門家にもまだよく分らない。(略)結局はただ昔の化物が名前と姿を変えただけの事である。>(寺田寅彦「化物の進化」、前掲書所収)

 つまり、科学はいろいろな「怪異現象」や「化物」の謎を解明しているが、実はまだ不可知のことも多く、「結局はただ昔の化物が名前と姿を変えただけ」というのです。

 恐怖の対象もさまざまですが、それにしても人はなぜわざわざ怖いものを見たり聞いたりしたがるのか、これが不思議でなりません。怖いとわかっているのに、息を詰めて怪談に聞き入り、「決してひとりでは見ないでください――」(映画「サスペリア」の宣伝惹句)と言われているのに、映画館の暗闇で、身をこわばらせ、トラウマになるほどの画面に見入ります。この心理が不思議です。

 怖い物語もミステリー、ホラーなどいろいろですが、日本の怪奇幻想小説の古典の筆頭に上げられる上田秋成『雨月物語』は、昔から親しんできた1冊です。理由のひとつは、この短編集のなかでも、もっとも怖いといわれる「吉備津(きびつ)の釜」の舞台になった備中国一宮(びっちゅうのくにいちのみや)、吉備津神社が、子どもの頃住んでいた岡山市からJR吉備線で4つ目の駅「吉備津」にあったからです。

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 物語は、妻の嫉妬で呪い殺される男の話です。吉備津神社の神主の娘が嫁ぐにあたり、両親は「御釜祓(みかまばら)い」を行います。大きな釜に湯をわかし、釜の鳴動で吉凶を占う神事です。

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<吉祥(よきさが)には釜の鳴音(なるこゑ)牛の吼(ほゆ)るが如し。凶(あし)きは釜に音なし。>

 釜が大きくうなれば吉、音を立てなければ凶。さて、結果はどうだったか?

<只(ただ)秋の虫の叢(くさむら)にすだくばかりの声もなし。>

 つまり、秋の虫が草むらで小さく鳴くほどの音も立てませんでした。

 けれど、娘も嫁入りの日を楽しみにしているというし、婚礼は予定通りに行われます。ところが、夫となった男は、やがて遊女となじみ、出奔してしまいます。裏切られた妻は夫を怨み、死霊となってこの夫を呪い殺します。

 結末にいたる描写が真に迫って、全身、身の毛がよだちます。

 吉備津神社は、国宝の本殿・拝殿も見事なら、地形そのままにまっすぐに造られた全長360メートルの廻廊も素晴らしく、とても怪異譚の舞台には見えません。長い廻廊の先にある御釜殿も、いまやパワースポットとして、良縁成就を願って訪れる若い女性が増えていると聞きます。

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 鳴釜神事(なるかましんじ)の釜の下には、桃太郎伝説の鬼のモデルとされる温羅(うら)の首が埋められているとか。異国からやってきた暴れものの温羅を退治するために、朝廷は武人を遣わします。それが桃太郎のモデル、吉備津彦命(きびつひこのみこと)で、イヌ、キジ、サルの軍勢を率いて鬼の城を攻め、ついに鬼を倒します。そして、温羅を捕え、首をはねるのですが、なぜかその首が大声を上げてうなり続けます。ついには、吉備津神社の釜の下に埋めてしまうのですが、それでもうなり声はやみません。

 ある時、桃太郎の夢枕に温羅の霊が現われ、「自分の首の埋まったかまどの火を炊く役目を、自分の妻にやらせてほしい。そうしてもらえれば、釜を鳴らせて吉凶を占おう」と言ったので、その通りにすると、うなり声はようやくしずまったといいます。

 これが「鳴釜神事」の起こりというわけですが、この釜が鳴るメカニズム(寺田寅彦ふうの科学的解説)は、ウィキペディアの「鳴釜神事」に出ています。

 1度だけこの儀式を見学した際は、ふぉーんというシンセサイザーのような不思議な音が鳴り響きました。鳴らない時は本当に鳴らない、とも聞きました。

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 村上春樹さんの『海辺のカフカ』(新潮文庫)の中にも『雨月物語』は登場します。

 『雨月物語』の一篇「菊花の約(ちぎり)」の話が紹介されたり、ケンタッキーフライドチキンの店頭に立つ白いスーツ姿のカーネル・サンダーズ氏(小説のなかではポン引き役)が、

 「我今仮(かり)に化(かたち)をあらはして話(かた)るといへども、神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮(こころ)あり」

 などと言います。

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 セリフはそっくりそのまま『雨月物語』の「貧福論(ひんぷくろん)」からの引用です。「今私は仮に人間のかたちをしてここに現れているが、神でもない仏でもない。もともと感情のないものであるから、人間とは違う心の動きを持っている。そういうことだ」というのです。

 「我もと神にあらず仏にあらず、只(ただ)これ非情なり。非情のものとして人の善悪を糺(ただ)し、それにしたがふべきいはれなし」

 「神でも仏でもないから、人間の善悪を判断する必要もない。また善悪の基準に従って行動する必要もない」ともいいます。

 ともかく、非現実と現実との境目がはっきりせず、木戸を開け閉めして双方を行き来するような感覚は、実は、私たちにとって馴染みぶかいものです。もっといえば、私たちはあらゆる微妙な境界線上に生きています。日常と非日常、自然と人工、理性と情念、科学と神秘、などなど。

 怖い小説だけを立て続けに読んで、頭も心もかなりダメージを受けましたが、ここまで書いて、ようやく「日常」に戻ってきた気がします。「あちら側」に、いつまた連れ戻されないとも限りませんが、ひとまずこれにて筆を擱(お)きます。

2019年8月1日

ほぼ日の学校長

*吉備津神社の写真提供・岡山市

*8月8日、15日はお休みします。次回の配信は8月22日です。