BOOK
男子も女子も団子も花も。
「婦人公論・井戸端会議」を
読みませう。

第1回 言う人、言わない人

第2回
平和の使者である
糸井 僕はダジャレに関して、
ある法則に気づいたんです。
一つは、女の人は言わない。
猥談もするし、冗談も言うんだけど、
ダジャレだけは言わないでしょ。
小田島 例外は荻野アンナ。
糸井 あの人を見て原則が壊れた(笑)。
もう一つの原則は、ダジャレは必ず
上下関係の上から下へという構造になってる。
友達同士で言う場合もあるけれど、
教授が学生にとか、上司が部下にとか。
松澤 けっこう無理に笑わされているという状況、
ありますね。
糸井 あるでしょう、どこか抑圧的な部分が。
上の人が下の人に言うのは、
道化ることで
距離を平らにしようという意識なのか、
「こんなことを言っても許されるだろう」という
権力の意識なのかは、
その人の個性によるんですけど。
で、今、若い人や女性たちが
ダジャレを批判するのは、
そういったことへの不快感からだと思うんですよ。
非抑圧側にいた人たちの抵抗として、
力関係を誇示するようなシステムを
ひっくり返そう、
ダジャレも「おやじギャグ」と言って
葬ってしまおう、という反乱が
起きているんじゃないか……。
小田島 たしかに上から下に言うのが
自然なあり方かもしれないな。
僕は、自分が書いた本の中では、
「ダジャレは平和の使者であり、
 自由の女神であり、平等の旗手である」
という三つの大義名分を掲げているんです。
糸井 あっ、そうなんですか。
小田島 たとえば、僕のシェイクスピア研究の
きっかけをつくってくれた
小津次郎という文学者がいるんですが、
その、いわば恩師に向かって僕は、
「先生はハンパ者だ」と言ったことがあります。
英語で「オヅ(ODD)」は
「半端者」という意味だから。
それからこれはわが家の例だけど、
僕の女房が台所で皿を割ったときに、
伜がひとこと、「老いては事をし損じる」。
女房は思わず笑っちゃう。
親子であろうが、
夫が威張っている夫婦であろうが、
その瞬間だけは対等になる。
それで平等の旗手であるという表現を
したんだけどね。
ただ考えてみると、
下の者が上に対して言うときには、
おっかなびっくりであったり、
言っても許されるであろうという、
どこかに親しみを感じる部分がないと、
言えないかもしれませんね。
糸井 小田島さんは、あちこちでポロポロと……?
小田島 いや、のべつまくなしじゃないですよ。
とくに女性がいるときなんか、
その人がダジャレOKかどうか、
ちゃんと見極めてから言う。
やっぱりウケてくれる仲間がいないとね。
松澤 ウケないと寂しいですよね。
小田島 逆に言うと、僕の飲み友達というのは、
だいたいダジャレ理解者。
糸井 夜ですね。夜のダジャレマニア。
小田島 昔はね、昼間、教室でだって言ってたんですよ。
学生もちゃんとウケてくれたの。
今はウケてくれませんからね。
「何言ってんの」みたいな顔をされると、
言うほうも張り合いがない。
糸井 ウケませんか。
小田島 ダジャレ感覚が鈍ってる。
退化してるんです、悲しいことに。
退化の改新……。
糸井 改心してほしい。
松澤 (苦笑)

第3回 女はそれを許さない

第4回 永遠に不滅?

2002-05-10-FRI

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