BOOK
男子も女子も団子も花も。
「婦人公論・井戸端会議」を
読みませう。

第1回 「詩人」「歌人」は職業か

第2回 発見の「安売り王」
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第3回
「何だ、これは!」を求めて

糸井 作品を読んで感じることなんですが、
僕にはお二人とも
古い“科学少年"のイメージがあるんですよ。
これとこれを組み合わせたら、
こんなふうに模型飛行機が飛んだぞというような。
枡野 なんか、実感がないとイヤなのかもしれませんね。
谷川 詩を書くとき、最初の頃は言葉を並べると
世界の模型ができますみたいな感じはありましたね。
だけど今はぜんぜん違う。
僕は意識として頭を白紙状態にしないとダメなんです。
自分が空っぽになって、
うんと意識下のほうに精神集中してると、
ぽこっと言葉が浮いてくる。
糸井 ということは、自分の中に
旅していくという感じになるんですか。
谷川 自分が他人と共有している
日本語のプールみたいなところに旅をするって
言えばいいかな。
でも、そこへ行くのはけっこう難しくて、
ダメなときはもうやめちゃいます。
ワープロの前で精神集中してるんだけど、
意識としては何も言葉がないんですよ、
たとえテーマがあっても。
糸井 最初の言葉は、どう書き出すんですか。
谷川 ぽこっと、ある一行とか半行が出てくると、
とりあえずワープロで打ってみる。
それが何行目になるかわからないんだけど、
そこからスタートするんです。
次からはある程度、
意識的に連想したりはしますが、
最初の言葉は、僕は夢遊病的と言うんだけど、
なんかわけわかんない言葉が出てくるという感じです。
糸井 迷い込む感じなのかな。
谷川 迷い込むのとはちょっと違いますね。
比喩的なイメージで言うと、
日本語の総体−−過去から現在までの、
そして地域的にもすごく広がっている、
種類としても書かれた言葉から喋った言葉まで
全部含んだ−−といったものがあって、
植物が根を下ろすように、
そこに自分もふだんから根を下ろしている。
そして精神を集中したときは、
そういう言葉を樹液のように吸い上げて
お花にするみたいな。
カッコよく言うと、そんな感じなんですよ。
だから自分の言葉だという意識がないんです。
「共有している言葉」を探す、ということかな。
糸井 そこには、最初から読者が組み込まれている。
枡野 言葉って、読者がいないと
意味ないものだったりしますよね。
だから地球上に誰もいなくなったら、
僕は短歌はつくらないかもしれない。
糸井 おれ、つくるかもしれない。
魚一匹でも、
生き物の気配みたいなものがあれば、
言葉を投げかけたいなあ。
枡野 へえー、そうですか。
絵だと、描いた瞬間に素晴らしく描けたと
満足できることがあるのかもしれないけど、
言葉は誰かが読まないと、あるかないか
わかんないようなものだという気がするんですよ。
谷川 僕もそう思ってますね。
それから、さっき糸井さんが
書く意味は生きること自体だとおっしゃったけど、
われわれが詩や短歌を書きますね。
すると世の批評家や読者は、
その作品と生活している言葉とを
つなげて考えてくれないんですよ。
僕はそれ、すごく問題だと思ってる。
詩の言葉はふだん友達と喋っている言葉とは
ぜんぜん別のものであって、
立派なお言葉である、みたいなね。
ところが言葉はつながってるんですよ、地続きでね。
枡野 歌人の意識だと、歌はハレとケの「ハレ」なんです。
あんまり私たちの喋り言葉みたいなものは使わず、
わざと古文でわかりにくく書いて、
神様と通じたり、天皇と通じたりとか、
そういうものが短歌の主流です。
だから僕はしばらく
「特殊歌人」と名乗っていたんですけど。
谷川 枡野さんの短歌も、
ふつうの会話の中で使っているような言葉だし、
もしかしたら女を口説くときにも使える。
そういう連続性があるのがすごく快いんですよ。
つながってないと力がないでしょう。
広告の言葉もそうじゃないかな。
糸井 同じですね。
枡野 それから僕が最近ずっと感じているのは、
言葉は誰が喋ってるかが見えないと
意味がないんじゃないかということ。
糸井さんが
「この本、面白いよ」
と言うなら読んでみようかとも思うけど、
インターネット上で匿名の誰かがひと言、
「私のおすすめ」と書いてあったって、
読む気にはなれないし。
言葉って実体がない。
つまり、バックに何かがないと通用しない
通貨みたいなものじゃないかと。
糸井 おそらく発語した人間の歴史なり経験なり全部が、
壮大な形容詞なんだと思うんですよ。
つまり谷川俊太郎さんが
「このケーキはおいしいね」
と言ったとすれば、
谷川俊太郎という人のずっと長い歴史が
ものすごい形容詞としてあって、
そのケーキになるという。
「おいちいね」
と赤ちゃんが言えば、
赤ちゃんという形容詞だから、
それはそれで通じる。
谷川 新聞記事とか教科書のテキストは、
発語者がわからない。
だから気味悪いんですね。
枡野 糸井さんがスチャダラパーというラップグループを
雑誌でほめてらしたけど、
それが
「どうほめていいかわらないぞ」
というのを延々、書いているだけなんです。
でも糸井さんがそう言うのは、
よっぽどすごいんだろうなと思える。
糸井 僕は本気でほめたものは全部、
「わからない」
って書いてるんです。
谷川 それは、すごく正しい態度じゃないですか。
糸井 その発想の出どころや仕組みがわからない。
わかっていれば、自分でつくってますよ。
亡くなった岡本太郎さんの名言があって、
「芸術とは『何だ、これは!』というものだ」。
谷川 僕も自分の詩で気に入ってるものは、
「何だ、これは!」と思うもんね。
それがいいんですね。
何でこんなの書いたのか、
ぜんぜんわかんないというのが。
糸井 二百字の文章を書くのにも、
「これからは言葉をもっと大切にしなければ」
という教訓を用意しておくとか、
最初からまとめようとしている人が多いじゃないですか。
でも僕は、そういうことを忘れて、
夢中になる人に惹かれるな。
枡野 結論なんてつまんないですもんね。
詩は自由に書けて、
「何だ、これは!」も多いと思うんですけど、
これが俳句のように短くて定型があると、
同じ句ができちゃうことは多いですね。
俳句の人が百人以上、同じテーマで
句をつくるという会を見たことがあるんです。
「柏餅」がテーマだったんですけど、
「またこの句なの」っていうくらい、
同じような句がいっぱい出てくる。
「二つめはみそあん所望柏餅」とか。
柏餅のアンコについて論じたもの、
あとは柏餅が多すぎて重箱の蓋があいてしまう句とか、
そういうのばっかり。
思わず、みそあんいくつ、こしあんいくつって、
「正」の字書きながら数えちゃったんですけど。(笑)
糸井 逆に言えば、
そのいちばん多い俳句をつくれば商売になる。
枡野 でも俳句の会では最終的にはヘンなものが目立つんです。
いちばん好きだったのは、
「日本にいろいろな餅柏餅」
というつまんない句(笑)。
でも、ああいう中で目立つのは
すごいことだと思いました。
糸井 「日本にいろいろな餅柏餅」、好きだな(笑)。
柏餅って、それだけ人に
考えさせた経験のない物体なんだね。
枡野 俳句は同じ句ができるし、
短歌もある程度はそうなんですね。
僕自身、同じテーマを七五調で、
日本語で美しく、リズムもあってと、
いろんなルールを決めてちゃんと書けば、
誰でも僕と同じ答えになるはずだという歌を
つくっているつもりなんです。
ただ、一回くらい僕らしい歌をつくれた人も、
次からはできなかったりするんですけど。
糸井 そこが枡野君ならではの世界ということなんでしょう。
でも、僕じゃない人が書いても、
その詩はあるんだよっていうものは書きたいですね。
谷川 さっき、発語者がわからないと
言葉に力がないと言ったけど、
それは散文の場合で、
詩だと最終的には署名がなくなっちゃうのが
いちばんいいと思うんですよ。
『詩人の魂』というシャンソンがあるじゃないですか。
歌は流れているけど、
詩人の名前は忘れられているという。
『万葉集』の読み人知らずと同じように、
本当に詩がよければそうなっていい。
枡野 でも原稿料だけは作者にきてほしい。(笑)

第4回 エネルギーを読む

2000-05-28-SUN

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