肉体言語で考えてごらんよ。安宅和人×糸井重里
安宅和人さんをお迎えして、
糸井重里と10年ぶりに対談をしました。

ヤフーやLINEといった会社をグループ化した
Zホールディングスで働き、
新人を積極的にチームに入れている安宅さんは、
同時に慶應義塾大学で学生に指導することも。
デジタルネイティブないまの若者を
よーく見てきた安宅さんと、
これからの時代の若い人の生き方について
糸井重里とたっぷり語り合いました。

ITの世界でデータを扱う安宅さんですが、
ご本人の育ち方は正反対な、自称「野生児」。
全身を使って体験してきたことが、
いまでも役に立っているそうですよ。
※この対談を動画で編集したバージョンは

 後日「ほぼ日の學校」でも公開します。
(7)頭より手足を動かそう。
糸井
安宅さんのお仕事を見ていると、
どれも肉体感を大切に
なさっているような気がするんですよ。
論文であろうがなんであろうが、
肉体言語になりますよね。
若い人をチームに入れることもそうだし。
安宅
いやあ、とんでもないです。
糸井
若い人が勇気が持てるような、
元気に働ける環境を作る仕事ですよね。
ぼくは年を取ってから、
そういう仕事をおもしろく
感じるようになったんだと思うんです。
安宅
それは素晴らしい。
糸井
安宅さんは積極的に
チームに若い人を入れていますけれど、
そのことが必要なんだと思うんですよ、たぶん。
安宅
若い人を育てて、
動きやすい場所を作るということですね。
糸井
いま、それをいちばんやりやすい場所って
どこなんでしょうかね。
行政なのか、企業なのか、個人なのか。
どこが中心になって動くと
いちばんいいんだろうっていうことに
とても興味あるんですね。
写真
安宅
ほったらかしにされているところが
いいんだと思いますけどね。
このあいだの夏休みに
アムステルダムのゴッホ美術館で、
ゴッホの最初から最後までの
何百枚の作品を初めて一気に見たんです。
ゴッホはその一生で、
弟のテオやゴーギャンぐらいにしか
認めてもらえないまま死にましたよね。
ほったらかされていたからこそ、
あの凄まじいクリエーションを生んだわけですよね。
ぼくは、ほったらかしにされていなさすぎる
若者がむしろ心配です。
若者たちはみんな、期待されすぎています。
雑草に限りなく近い育ち方をしたぼくからすると、
東京の子たちが、こんなにケアされて育って
大丈夫なのかなって思うんですよ。
糸井
ああ、なるほど。
ぼくは自分の子どもの小さい頃を見ていて、
転んだときに起こさない知性が必要だと感じて、
意識的に手を差し伸ばさないでいた覚えがあります。
安宅
お子さんは泣いているわけですよね。
糸井
起きそうになったときには手伝ってあげて、
なんで泣いているのか娘に聞くんです。
「痛いから? 悲しいから? 驚いたから?」
そうすると、痛いからって答える。
どのくらい痛いか聞いてみると、
ちょっとって言うんですよ。
ちょっとならもういいかって泣き止むんです。
そうやって催眠術師みたいに
泣き止ませたのをぼくは覚えていますね。
安宅
まあ、糸井さんのことばは
常に催眠術的ですから(笑)。
糸井
いま思えば、激しい教育パパですよね。
人はなんで泣くんだろうっていうことを
聞いてみたかったんです。
そんなことばかりやっていたわけじゃないけれど、
ぼくにとっての問題の投げかけだったのかな。
で、それは社内の人たちに対しても
似たようことをやっているような気がするんですよ。
冷たすぎる愛情っていうんでしょうか。
さっきから話題に出ている、
雷が落ちそうなところに
いっしょに行くようなことなんですよ。
たとえば、キャンプに行くだとか
ジムでトレーニングすることも同じです。
安宅
確かにそうですねえ。
ぼくが若いときに読んだ本で、
開高健さんのことばが印象的だったんです。
「頭だけで生きようとするから、
凝視の地獄から避けられない」って。
とにかく手と足を使えということなんですよね。
江藤淳さんかどなたかの本に、
「博打でもいいから手を使え」と孔子が言っていた、
という一連のくだりがあったんです。
糸井
ああ、いいですね。
安宅
でも、『論語』をどこまで読み直しても、
どこにもそのことばは出てこないんですけど(笑)。
糸井
じゃあ、発明だったんだ。
安宅
そうそう、発明だったんじゃないかって。
まあでも、「生」の感覚を大切にして
手と足を動かしていれば落ち着くのに、
ということはありますね。
写真
糸井
ぼくは吉本隆明さんから
いっぱい学んできましたけれど、
その中に江藤淳さんの話がありました。
つまり、江藤淳さんみたいなかたが
中学の先生をやるといいんですよ。
安宅
江藤淳先生が中学の先生ですか!?
ああ、それはおもしろいですねえ。
糸井
江藤淳さんみたいな一流の人たちが
大学にしか住めなくなっちゃっていて、
大きな国立の大学を定年になると、
地方の女子大みたいなところに行って、
そこで何年かやると行く場所がなくなるんです。
給料のアテがない人になってしまうのは、
非常にもったいないですよね。
そういう人を中学の先生にするのが、
吉本さんの教育論だったんです。
安宅
ああ、すごくいいですね。
糸井
中学生が聞いていようが聞いていまいが、
江藤淳さんみたいな人が
好きなことをしゃべるんです。
大学生を相手に話すのとは全然違って、
相手がわからなそうだなと思ったときに
先生もどうしようかなって考えますよね。
それも含めてやりたいようにやるだろうって。
それがいちばんの教育なんだって
吉本さんがおっしゃっていました。
じつは、それが「ほぼ日の學校」なんですよ。
安宅
なるほど。
糸井
やっぱり、人が伝えたいことだとか、
知っていることだとかについて話すことは、
嬉しそうに聴いても、退屈して聴いても、
見ている中学生は何かを得ちゃうんですよ。
雷に遭ったときみたいに。
そういうことで、吉本さんから聞いた、
江藤淳さんが中学の先生をやることと、
「ほぼ日の學校」を重ねているつもりです。
もっと言うと、吉本さんの先生だった
遠山啓さんという数学の先生は
「学校というものは将来、
運転免許の教習所と劇場とに分かれる」
という言い方をしていたんですよ。
安宅
劇場ってのは新しいですね。
糸井
つまり、お客がお金を払って
たのしみに来る場所っていうのが劇場です。
もう一方では、どんなに高いお金を払ってでも、
必ず運転できるようにするのが教習所。
このふたつの両極に分かれるんじゃないかって話を
遠山先生がなさっていたんですよ。
その弟子だった吉本さんが、
江藤淳さんを中学の先生にしたいと話していました。
その吉本さんは、ぼくの作った本の後書きに、
いつか糸井さんは学校を作りそうなんで、
おれもそこでちょっと教えてみたい
って書いたんですよ。
安宅
ああ、いい話ですね。
糸井
吉本さんには講演みたいにして
話していただいたことはありますけど、
そういうことなんだと思うんですよ。
写真
安宅
では、いまここで我々が話しているのも、
劇場の一種なんですね。
糸井
うん、そうです。
何を学んだかテストなんてしたらつまんないの。
「今日は安宅さんっていう人が来て、
Yahoo!に所属しているから
ITの話になると思っていたら、
雷の話をしていたよ」でいいんです。
安宅
雷に打たれました、吹っ飛びましたとね。
糸井
遠くのものは輪郭は見えないけれど、
明るいことはわかるから
方向だけは合っているんですよ、とか。
いま、ぼくたちの目の前で聴いているのは
「ほぼ日」のインターンの子たちなんですよ。
みんなが通っている大学の
試験に出るようなことは絶対にない
「ほぼ日學校」で雷の話を聴いているんです。
安宅
これはみなさん、ラッキーすぎますよ。
こんな話、聞けませんから普通。
プライスレスすぎます。
すごく深い鍼治療で20年後、30年後に効きますよ。
糸井
こんなことができる場を作れちゃって、
おそらくこれからは安宅さんの活動と
「ほぼ日の學校」との繋がりも出てくるでしょうし。
安宅
もちろんです、ぜひ。
糸井
今日は何のテーマも見つけずに、
いっしょにしゃべっていると
お互いに何かが見えてくるっていう
話がしたかったんですよね。
安宅
こんなお話でいいんでしょうか。
糸井
ええ、なんでも。
よければ、またいいですか?
安宅
もちろんです、何回でも。
糸井
他の場所に出かけていってもいいですし、
安宅さんとセッションをする授業にしたいな。
ここでふたりのセッションをお開きにして、
あとは残った時間で
たまたま居合わせた人と喋りましょうか。
(つづきます)
2023-05-25-THU