糸井 ぼくは単純に、
太郎があの「岡本太郎」になった理由は
根っこに悲しみがあるからだと思います。
ものすごく残響の強い「無理解」に向かって、
自分は何を言うべきかを
いつも発見していたのではないでしょうか。

つまり、理解の中にいない岡本太郎を
ぼくは感じます。
ケンカに勝って次に行く。
あれだけ悲しいところに行った人じゃないと、
ぼくは、岡本太郎にはなれないと思います。
平野 ああ、そうかもしれないなぁ。
太郎は死ぬまで理解されなかったと言って
いいでしょうからね。
でもそれを選んだのは太郎自身です。
だって、パリに戻らなかったわけですからね。
戻れば順風満帆だったはずなのに。

太郎は19歳で渡仏し、22歳の若さで
抽象芸術運動の
ど真ん中に迎えられるわけです。
そのときのメンバーの顔ぶれを見ると‥‥
糸井 すごい巨匠ばかり。
平野 そう。
しかも同時にシュルレアリスムの連中とも
つきあっている。
いわば、世界選抜チームを
渡り歩いたわけです。
人脈にしろ、キャリアにしろ、言うことなし。

戦争が終わって、パリに戻っていれば、
うまくいくのは目に見えていた。
だけど、帰んなかった。なぜだろう?
本人は
「俺はパリを捨てた人間だから、
 もう戻る資格はないんだ」
みたいに言ってるけど
とてもそんな程度の話とは思えない。

これは敏子に聞いたわけじゃなくて、
単なるぼくの推測ですけど‥‥
もしかしたら強烈な使命感が
そうさせたんじゃないかと思うんです。
いわば岡本太郎は、草野球しか知らない国から
ひとり大リーグに渡った人でしょう?
帰ってきたら母国はまだおかしなルールで
草野球をやっていた。
それを見て、誰からも頼まれてないのに、
このガラパゴスをなんとかしなきゃ
それがおれの仕事なんだ、と
勝手に思い込んだんじゃないかと思うんですよ。
だって、太郎は滅茶苦茶、
真面目な人だったから。
糸井 あ、真面目な人っていうことは、
よくわかる。
平野 そうですよね。
几帳面で、異常なほど
正義感の強い人だったと思う。

このことは、以前
民俗学者の赤坂憲雄さんとも
少し話をしたんですが、
赤坂さんは
「でもね、太郎がえらかったのは、
 草野球をやってるやつらを
 バカにしなかったところだ」
とおっしゃっていました。
糸井 ああ、ほんとうに、そうですね。
平野 当時、外国から帰ってきた人たちは
学者にしても芸術家にしても、
みんな日本をバカにした。
「おまえら草野球しかできねぇのかよ」
「俺は違うもんね」と。
太郎はバカにせずに
芸術とは何か、人生とは何か、
大衆に向かって、それを言い続けた。
だけど、けっきょく伝わんなかった。
死ぬまで「残響の強い無理解」の中にいたんです。
糸井 うん、うん。
平野 万博だって伝わってないですよ。
『太陽の塔』にしても、
なんにしても。
糸井 太郎さんは、フランスに行ったときに
マルセル・モース
(文化人類学者。岡本太郎さんが
 ソルボンヌ大学留学時に師事)
とのつきあいがありましたよね。
進んだ西洋の文化にあって、
たとえばアフリカに住む人たちを
研究対象として見ることがあったかもしれない。
でも、ちゃんと研究している人は
「ほんとうは同じ」ということに
気づいていくわけです。
おそらく人類学というのは
そういうことだと思います。

そこで、
自分が自分として生まれたということを
否定するわけにはいかない。
パリにいる岡本太郎はそう考えたと思います。

否定するわけにいかないけど
過剰にすばらしいとも言わない。
海外に行くと「日本はすげぇぞ」って、
やたらに言いたがる人だっているけど、
岡本太郎はそうもならなかった。

向こう側で見たものがあって
日本に帰って掘り起こしてみたら、
「なかなか、全部すごいじゃん?」
ということだったのでしょう。
例えば、太郎さんの縄文文化の発見は、
そのプロセスですよね。
平野 そうですね。
糸井 とにかく、全員すごいんだという話を
岡本太郎は証明したくてしょうがない、
というふうにぼくには見えます。

そうしようとするためには、
理解があるときがいちばん苦しい。
ひとつひとつの試合を
武芸者として、無理解のなかで
のたうちまわることで
つくってきたのだと思います。

岡本太郎が、
ただ死んでみせたとするならば、
ぼくらはそこをもっと
おもしろがらなきゃいけないですよ。
あんなに演じてきた人が、ただ死んだ。

そしたらもう、残ってる人が、
「あいつ、よーくがんばったなぁ!」と
言わなきゃいけないでしょう。

「俺は、違う太郎を見つけたぞ」
「自分も太郎であることを見つけたぞ」
それを発見できる時間が、いまです。
平野 太郎は大阪万博で、
まぁ「見かけ上」、大成功したわけですよね。
糸井 そうですね、はい。
平野 でも、というか、だからこそ、っていうか
それ以降、太郎の地獄がはじまったんです。
あいかわらず社会は太郎に無理解なんだけど、
表面上成功したら、
戦わなくなっちゃったんですよ。

太郎が画壇的な権威に喧嘩を売っていた頃は、
「岡本太郎が10年後に残ってたら、俺の首やる」
という評論家もいたんです。
寄ってたかって批判して
『太陽の塔』のような見苦しいものは
ダイナマイトで爆破しろ、という声も
あったくらいです。
だけど、『太陽の塔』は国民的存在になり、
万博は大成功した。

それで、敵がいなくなった。
無理解、かつ敵がいない状態。
のれんに腕押し、糠に釘。

先ほど糸井さんから
「ケンカに勝って次に行く」と
いう話がありましたが、
万博以降は行く場所がなくなっちゃった。
糸井 ああ、そうか‥‥。
平野 建築家の磯崎新さんは、この状態を
シャドーボクシングのようだったと
おっしゃっていますし、
敏子は、宇宙遊泳みたいだったと
言っていました。
糸井 位置だけがあって、
ベクトルとして成立しないもの
だったんでしょうね。
平野 そうそう、そんな感じです。
糸井 「岡本太郎って、なんだかすごい人らしい」
そう言われながら
理解もしなければ親しみもない、
その状態でさらされていた。
平野 そうなんです。
もしかしたらね、
晩年テレビに出たことが‥‥
糸井 あ!
そうかもね。
平野 当時、彼はお笑い芸人まがいに見られていたし、
ちょっと風変わりな、
いわば奇人変人の類というか、
そういうふうに、なっていたでしょう。
糸井 うん‥‥。
平野 でも、彼は岡本太郎です。
田舎から出てきた小娘じゃない。
「テレビの人たちに、だまされました」
という話じゃないことはたしかです。
糸井 じゃないですね。
平野 つまり、あえてやったわけでしょう?
まわりからも、バカなことやめなさいって
とめられたに違いない。
それなのに‥‥
糸井 俺は、その気持ちはわかるなぁ。
平野 あ、そうですか。
糸井さん、そうですか。
(つづきます)
2011-12-28-WED
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