混雑をきわめたオペラハウスのロビーを抜けて、
ボクらはお店に向かいます。
案の定、パウダールームには長蛇の列。
レストランには数組の、お客様だけ。
中にはボクらと同じように、
オペラハウスから逃げてやってくる、
おそらくおなじみさんなのでしょう。
シャンパングラスを片手にお店の人と、
オペラ談義をたのしんでいる。

クラシック音楽の殿堂の近くにある店。
だから自然とみんな音楽のコトに詳しくなっていくのです。
コンサートホールやオペラハウスが動いているときには、
それを目当てのお客様が多くなるし、
今、何をやっているのか勉強したりもします。
お客様の興味を自分の興味にするコト。
それもサービスのひとつですから。
そもそもニューヨークのレストランと
クラシックをはじめとするショービジネスは、
同じ夢をお客様に売る商売として、持ちつ持たれつ。
「プレシアターディナー」なんていうサービスを、
用意しているお店も沢山あるのです。




プレシアターディナー。
観劇前の晩餐‥‥、とでも訳しましょうか。
仕事を終えて劇場が開くまでの短い時間で
テキパキ、すますコトができるクイックディナー。
ミュージカル劇場が多く集まる
ブロードウェイのレストランでは、
それを売り物にしているところがあるほどで、
そうしたお店の従業員は
今、どこでどんなミュージカルをやっているのか、
そしてその開演時間が何時なのかを知っていなくては、
仕事ができないほどでもある。

私どものお店でも昔、プレシアターディナーを
提供していたこともあるのだけれど、
ほとんど注文いただけなくて。
皆さん、優雅な夕べをたのしまれるため、
食事に時間をたっぷりかける。
特にオペラシーズンは、いつも以上にユックリと。
オペラの日には休みをとって、
丸一日をオペラをたのしむ準備に使うという
シアワセでゴキゲンな方に
ずっと贔屓にしていただいている。
もしまたオペラにいらっしゃるときは、
時間に余裕をもってお越しになりますように‥‥、と。
ところでシャンパンでもお飲みになりますか?
って聞かれる。

飲んでしまうと眠たくなったら困るから、
エスプレッソでもいただけますか?
パウダールームから戻ってきた彼女も
熱いコーヒーを、と言って
ふたりで大きなカップにエスプレッソをもらって飲みます。
そんなボクらをニッコリしながら見る支配人。
ボクはとあるコトを思いつきます。
支配人へのお願いです。

もし可能であれば、
ボクのカバンをあずかってはいただけませんか?
足元に置くのも窮屈。
手元にあると、気が散るのです。
貴重品が入っているわけではありませんゆえ、
舞台が終わるまでどうか‥‥、と。

支配人は笑顔で快諾。
エスプレッソのお金を払おうとしたら彼はこういう。
お支払いは舞台がはねて、
お戻りになったときで結構でございます‥‥、と。
そして小さなミントキャンディーを
一つづつ、ボクらに手渡しレストランの扉をあける。
互いに互いを信頼できた証の一言。
ボクは意気揚々と、通りに出、
手を振りながら大きな声で彼に告げます。

オニオングラタンスープを食べにまいりますから、
よろしくネ。




素晴らしいパフォーマンスで、
おそらくシャンパンを飲んでいたとしても
眠る暇なんてなかったでしょう。
幕が降り、劇場中の明かりがすべてついて尚、
その劇場を去りがたく
スタンディングオベーションが
10分近くも続いたほどの名演でした。
それでも劇場をでなくてならぬときは必ずやってきて、
劇場の中は汐がユックリひくように
出口に向かって人波ができる。
最初はユックリ。
けれどロビーに出、出口が見えるにしたがって
みんなの足取りは徐々に、そして確実に足早になる。
深夜というにふさわしい時間であります。
早くでなくちゃタクシーを拾えなくなる。
予定時間をはるかに超えた終演で、
待ち合わせをしている人を待たせちゃいけない。
いろんな理由があるのでしょうけど、
中でも一番、みんなの足を早めているのがおそらく空腹。
何か夜食を食べて帰ろう。
あるいはお酒を飲みながら、
今日の名演を語り合いつつ、その幸せをかみしめたいと、
そんな気持ちがレストランを探させる。
ボクたちが向かうレストランの前にも人だかり。
満席という訳ではないのだけれど、
テーブルの準備ができるのを
正装の紳士淑女が待っている。
アップタウンにバトラー付きの豪邸を持っている紳士も
ココでは、First come, first seated。
予約がなければ、早い者勝ちの行列の
後ろにつくしかないのですネ。

ボクたちは、その行列を横目にみながら、
お店の入り口に近づいていく。
ドアはあきます。
「ウェルカムバック」‥‥、
おかえりなさいとドアが開いて、
ボクらはすんなりボクらのテーブルにつく。

ずいぶん、良いパフォーマンスだったようですね‥‥、
街を歩く人達の笑顔が今夜は格別ですから。
支配人はそういいながら、
オニオングラタンスープをすぐにご用意できますが、
いかがしますか? と。
お願いします。
それと一緒にシャンパンを、グラスで2つ、
いただけますか?と。
「ベリーウェル」とお辞儀を合図に
厨房の中から熱々のオニオングラタンスープが、
さっとやってくる。
チーズがとろけて、器の端から溢れだし、
溢れたチーズはガリッと焦げて切ない香りをはなってる。
冷たくなった両手を器にかざしただけで、
ホンワカそこだけあたたかくなる。
それほど熱くて、しばしウットリ、見つめるばかり。
シャンパン用のフルートグラスが
テーブルの上にそっと置かれて、
トクトク、シャンパンが注がれていく。

お戻りになったらすぐにお召し上がりになれますようにと、
30分ほど前から準備をしておりました。
本来ならば5分ほど前がベストの状態。
ちょっと余分に焦げてしまったコトをお詫び申し上げます。
そういう支配人に彼女はいいます。
「スタンディングオベーションが長引いた分、
 焦げてしまったというコトですね‥‥、
 でもわたくし、焦げたチーズが大好きですのよ‥‥、
 本当にとてもおいしそう」
グラスの中のシャンパンの泡。
それが落ち着くまで待って、コクリと一口、
舌を潤しそしてハフっとオニオングラタンスープを食べる。
体の隅々まで染みこんで、
そのシアワセな味がやさしくゆきわたっていく。
不思議なほどにお腹がそれですいてきて、
本格的な夜食をひとつ、食べたくなった。
明日は朝から会議があるけど、それはそれ。
今日の舞台のコトをもっと語り合いたい。
このまま家に帰ったとしても、
おそらく気持ちが高ぶって、
すんなり眠れぬような気もする。
なによりこうしてほぼはじめてやってきた店。
そこでお店の人と
不思議な信頼しあえる仲になれたというコトが、
とてもうれしく、このテーブルを去りがたくなる。
お腹すかない? と彼女に聞いたら、
今日はこのまま帰れないわね、とニッコリ答える。

支配人に目配せをして、お腹がすいてしまったのですけど、
何かおすすめのモノはありますか? と聞いてみる。
とっておきがございます。
ただ、「Serving for Two」でございますが、
それでもよろしければといいます。

さて来週といたします。


2012-02-09-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN