対談 大橋歩さんと鹿児島睦さん。ひとりでつづけるものづくり。 対談 大橋歩さんと鹿児島睦さん。ひとりでつづけるものづくり。

2018年春の「やさしいタオル」
いっしょに「ほぼ日」に登場した、
イラストレーターの大橋歩さんと陶芸作家の鹿児島睦さん。
「いちどもお会いしたことがない」
というふたりを引き合わせたくて、こんな機会をつくりました。
大先輩を前に最初は緊張していた鹿児島さんでしたが、
「おんなじだ!」「ぜんぜんちがう‥‥」という発見が、
どんどん距離をちぢめてゆきました。
雑談めいたぶぶんも含めて、そのようすを
全6回でおとどけします。



──
つくられてきた雑誌『大人のおしゃれ』を
終刊にすると決めたと、
大橋さんはすごく明るくおっしゃったんです。
「終わりなのよ!」って。
そして「次は何をするんだろう、わたし。
ワクワクしちゃう」っておっしゃって。
もうほんとうにびっくりしました。
鹿児島
すごい‥‥。
大橋
飽きたんじゃないんですよ、
あるとき、うまくいかなくなるんです。
それを「自分がうまくいかない」と思うかどうかは
わたしの問題だと思うんです。
人によって違うと思いますけれど、
わたしの場合は、そう。
例えばAさんがすごく素敵だから、
ちょっとお話を伺いたいなと思っても、
わたしがどこかで
「引いて」しまっていたりすると、
うまくいかないものですよね。
それは「わたし」の問題です。
そういうことが重なったりしたとき、
フッと、もうこれをやめていい時期なんだ、
と思うんです。
それでやめる。
やめれば、次に新しいこと、
やりたいことが出てくるかもしれない。
だからOK! って思えちゃうんですね。
周りは「そんなこと言って、どうするの?」
っていうことにはなるんですけどね(笑)。
鹿児島さんは、会社をお辞めになられたときは、
陶芸をおやりになりたいと思ってのことでした?
鹿児島
いえ‥‥会社自体はものすごく楽しかったんです。
天職だと思っていたほどでした。
ずっとこのまま会社員を続けたら
楽しいだろうなとずっと思っていました。
でも、その当時ぼくは35ぐらいだったんですが、
25、6歳くらいのときから、
かっこいい先輩たちが口をそろえて
「お前は35からだな」って言っていたんですね。
お会いするタイミングとか
シチュエーションとかバラバラなんですけど、
何故か25、6のぼくに向かって、みんなが
「35からでいいから、
何でも今のうちやっとけよ」
って言ってくれていたんです。
そんなことがありつつ、
実際に35ぐらいになってみたら、
ぼくは会社員で、じゅうぶん下も育ってきて、
ぼくがこのままいたら、
後輩たちが上に行けなくなると思いました。
そのときですね、
「そろそろ辞めてもいいのかな」
と考えたのは。
「このままではうまくいかなくなるかもしれない」
とか、
「ここにいなくてもいいかな」
という思いでした。
大橋
うわぁ。
鹿児島
つまり、陶芸をやりたいという情熱が
あったというわけではないんですよ。
もちろん、年をとったら、
こういうふうに、物を作る仕事を
したいなとは思っていたんですけれども。
大橋
そうなんですか!
──
先輩が35だぞって言ってくれたのが
引っかかってもいたんでしょうけれど、
「時期」って来るものなのかもしれないですね、
そういうふうに、自然に。
鹿児島
どうなんでしょうね。
あと、すごい馬鹿だと思われるんですけれども、
『ノストラダムスの大予言』ってご存知ですか。
大橋
はい、ありましたね。
鹿児島
1999年に地球が滅亡するという。
あれをぼく、本当に信じていて(笑)。
あれを小さい頃にテレビで見て真に受けて、
ああ、もう自分って
32、3ぐらいまでしか生きられないんだ、
と思っていたんです。
だから1999年以降の人生設計が
まったくなかったんです(笑)。
大橋
ほんとですか!
鹿児島
はい。アホなんです。
だから、逆に言うと、ぼくは、
たとえば会社員をやりながら、
面白そうなことを30代の頭までに
結構やってきたんです。
毎週金曜日の晩だけ開ける
バーの運営をさせてもらったりしていました。
それは福岡の第一線で活躍される素敵な方たちが
情報交換をするサロンがない、
場所を提供するから‥‥と、
素晴らしい実業家の方から声をかけていただきました。
ぼくも忙しいから
金曜日の晩だけだったらやれますって言って、
ほんとに金曜日の夜だけ、やっていたんです。
確か26から33ぐらいまで。
大橋
面白そう、そういうの。
鹿児島
そこに福岡の社長さんたちが集まってくださって。
世界中を飛び回ってるような方たちなので、
「俺、こないだパリでこんな話聞いたんだよ」
「イギリスでこんなふうに日本のこと
言われてるんだけど、知ってるか」
とかって面白い話をどんどんしてくださる。
そうしてる間に、福岡の学生たちが
そのおじさんたちの話を聞きにやって来て、
グラスワインを舐めながら、
ずっと聞いてるんですよ。
「今週も勉強になりました」って。
でもいちばん勉強したのはぼくなんです。
そこでも「35から」って言われました。
老舗の4代目から、進学もせずたたき上げの社長さん達から
「35までは、何でも来るもの拒まずで
仕事しなさい」って。
‥‥恵まれていますよね。
大橋
そうですよね、すごい!
わたしの最初の『平凡パンチ』の表紙も、
大人が「何だ、こんな絵?」っていう時代に、
わたしを引っ張り上げてくださった
大人の方がいた。
ほんとのイラストレーターたちの方は
「何だ、あれ?」っていうふうに
思ってたと思うんですね。
──
そんなことは‥‥。
大橋
だって、そりゃそうですよ。
稚拙で、「誰がこれクレヨンで描いたの?」って。
鹿児島
でもそれまでになかった仕事ですよね。
パイオニアじゃないですか。
大橋
あんなお絵描きに使うようなものを
雑誌の表紙に使うプロの人たちは
それまでいなかったわけですものね。
つまり、だからわたしは
そこいら辺がすごくよかったなと
思っているんです。
鹿児島
ぼくも、10年先、20年先に
こうなんなくっちゃ!
というお手本がまわりにいたことが、
有難かったなと思ってます。
そして今どうかというと、
中学生ぐらいのときから
引っ越しのバイトを始めて、
いろんな仕事をやってきたので、
今も「その中のひとつ」という意識があります。
そんなに違う仕事をやっているわけじゃない。
そうそう、今でも
内定を頂いてるところが何社かあって!
陶芸やめたら、いつでもうちの会社に来いって。
大橋
それはすごい。
鹿児島
この先陶芸の仕事ができなくなることだって
あると思うんです。
ぼくの祖父は博多人形を作っていましたが、
60幾つかのときに辞めています。
「博多人形の顔が描けなくなった」と思った瞬間に、
手は震えてもないし、綺麗な線が描けてるのに、
「引退ばい」って辞めた人なんですよ。
その後、祖父はいろんな面白いことをやって、
周りを困惑と失笑の渦に巻き込むんですけれども、
ぼくもわりとそんな感じで、
もし陶芸ができなくなっても、
なにか面白いことをするんだと思います。
大橋
うんうん。
鹿児島
オールマイティです、
と言ってるわけじゃないですよ!
そんなにこだわってはないんです。
いっぱいある仕事の1個だなと思っている。
奥さんには「就職して」と今でも言われます。
大橋
でも作品を拝見するとね、
そういうふうには見えないですよね(笑)。
鹿児島
だいたいぼくが弱音を吐くとそう言われます。
もうほんとに進まないよとか、
ほんとつらいとかって言っちゃうと。
──
なるほど。じゃあもしかして大橋さんみたいに、
突然フリ幅としてこれをやりたいと、
人がアートと呼ぶような仕事に進む可能性も
ないわけじゃないですね。
突然大きな絵が描きたいとか思うかもしれないし。
鹿児島
あるかもしれません。
──
わかんないですよね。
鹿児島
あるいは突然「角打ち*の店をやりたい」
って言うかも。

*角打ち(かくうち)は、北九州発祥の飲酒のしくみで、酒販店がその場でお客さんに飲ませる形式。

──
面白いなあ。
(つづきます)

大橋歩さんと鹿児島睦さんと
いっしょにつくった「やさしいタオル」は、
こちらでごらんいただけます。