(6) 辞書編纂者は詩人だ
糸井
飯間さんのお話を聞いていて思ったんですけど、
辞書はつまり、詩を取り入れているんですね。
飯間
自己表出を「詩」と考えれば、そうですね。
じゃあ、辞書編纂者は詩人だ。
もっときちんと言えば、ひとつの詩的な言葉を、
一般語の中に取り入れられるかどうかを見極める人、
と言うべきかな。
糸井
街の中に、塵のように漂っている詩をよーく見て、
「この塵はどこから出ているんだろう」と調べたら、
近くに工場があって、そこから出ている塵埃だとわかる。
「この言葉はなぜ出るんだろう」というところに行って、
たどったものを集めたら、辞書に入るじゃないかって。
飯間
そういうことですね。
糸井
カッコいい!
僕の興味も同じで、生み出す側の嬉しさがあります。
詩を取り入れることはどういうことだろうと考える、
もう一人の自分がいて、聞いている人たちがいる。
芸人としては、詩を言った瞬間よりも、
詩をわかられている時間が仕事になるんですよね。
飯間
辞書の編纂者の場合は、
その言葉を辞書に入れた時点で仕事が終わります。
ただ、自分が書いたことがそのあとで、
読者に受け入れられているかなという、
反応を知りたいということは、ありますね。
「『アマルガム』の新しい意味を追加したぞ。
さあ、反応はどうかな?」って。
似た例でもう一つ言いますと。
糸井
ぜひぜひ。
飯間
意味が拡張しているな、
という言葉はけっこうあります。
例えば、議論の中で
「ちょっとその件は保留にさせてください」
というときの「保留」ですけども。
これをですね、おそらく他の辞書を見ても
「保留」というのは「ちょっと留めておく」
という意味しかないと思います。
ところが、留める以外にも、
全部は認めずに付ける条件、
「『それはあくまでも例外的な場合に限る』
と保留をつけた」
などという場合の「保留」もありますよね。
この意味が、おそらく他の辞書にも
書いていないと思います。
さらに言えば、電話にも「保留」があるんです。
糸井
ああ、そうだ。意味は違いますもんね。
飯間
「電話をちょっと保留にして」というときは、
意見を留めるわけじゃないでしょう。
単に、話し中に音楽を流して
時間を稼ぐというのも「保留」なんですよ。
糸井
電話のボタンに「保留」って、
誰かが書いたんですよね。
飯間
保留ボタンを初めて考えた人は、詩人ですよ。
糸井
家電には、詩人が一人ずついるのかもしれませんね。
飯間
リモコンのボタンに、
わかりやすい言葉を入れなきゃいけませんからね。
2文字で「これはどういう機能か」というのが、
パッとわからなきゃいけないと。
そこでおそらく、家電の担当者は、
詩人になるんだと思います。
ウォシュレットの「おしり」も詩ですよね。
糸井
そうですね。
ずっと気になっていたことがあって、
電車に乗る口のところに
「乗降口」と書いてありますよね。
僕は「なんか、あの漢字カタいな」と思って、
自分がもし頼まれたらどうするんだろうって
考えたことがあるんです。
いまだに、本当にいい答えは出なくて。
飯間
それ、じつはあるんです。
東京では見つからないんですが、
京都へ行くとこういうのがあるんです
糸井
ああー。
飯間
ひらがなで、「おりば」。
確かに「のりば」があるから、
「おりば」なんですけど。
これは、京都でしか見たことがありません。
糸井
京都は、なんていうんだろう、
まさしく心の中のことを表現しますね。
ひらがなが多いですよ、京都は。
飯間
もの柔らかな感じがしますよ。
私がたまたま見ただけかもしれませんけど、
工事の現場で、
東京だと「通行止め 迂回路」とあるのが、
京都へ行きますとね、
「通り抜け出来ません う回お願いします」
とか文の形になっている。
糸井
人がいるかのようですね。
漢字がまだ外国語だった時代に、
ちょっと抵抗した余波があったんですかね。
外国語の漢字を使う文化に、
慣れ親しんでなるものか、みたいな。
飯間
漢字が入ってきた時代というよりは、
明治になって、東京を中心に
漢語がやたらに連発されたわけですね。
西洋からいろんな文物が入ってきて、
ソサエティは「社会」、リバティは「自由」というふうに
全部、日本語に直さなきゃいけませんでした。
明治の初めに、
東京発でやたらにカタい漢語が生まれたんです。
糸井
はあーー。
飯間
それ以前、江戸時代までは柔らかい大和言葉ですね。
「さくら」、「やまなみ」といった言葉が
ごく普通に使われていました。
「やまなみ」が「山脈」になるとカタいですよね。
日本古来の言葉を和語と言いますけれども、
江戸時代までは、京都でも大阪でも江戸でも、
和語が幅を利かせていたんです。
ところが明治になりまして、
「自由」「社会」「福祉」とか、
漢語ばかりを使うようになるんですね。
「学校で授業を受けてね、校長先生がいて」
というふうに、漢語がやたらに多くなるんです。
京都では、古来の和語が
比較的使われたということかもしれないです。
糸井
自分の気持ちの中にもけっこうありますね。
僕は、なぜかわからないですけど、
建造物のように身動きしない言葉は嫌だと思っていて。
飯間
漢字で書く言葉でしょう。
糸井
そう、僕が落語が好きなのも、
なるべく説明しなくていい言葉を
使うからなのかもしれません。
飯間
落語はむしろ、カタい言葉を揶揄しますね。
糸井
揶揄します。
飯間
普段着でいいというのが、落語の世界ですね。
私がよく、学生にも例を出す言葉があって、
落語では「気持ち」と言わないですね。
「ああ、いい気持ちだ」と言う代わりに、
「ああ、いい心持ちだ」と言います。
糸井
「心持ち」、言いますね。
飯間
「心持ち」は江戸時代までの言葉なんですよ。
糸井
「心持ち」、いい言葉ですよねえ。
ただ、いま「心持ち」を使ったら、
逆にキザに見えちゃいますね、
教養があって使っているみたいで。
飯間
ちょっと嫌味だと思われるかもしれませんね。
糸井
落語で、無茶苦茶にしているのに、
それで通用しちゃっている言葉が時々あります。
若い人に説明するのは難しいんですが、
「お女郎買い」という言葉があるんです。
つまり、「お・じょうろ・かい」で、
「かい」は買い物の「買い」、
「じょうろ」は女郎なんです。
でも、「じょろう」が入れ替わっちゃって、
「じょうろ」になっているという。
飯間
ジャズマン言葉みたいですけどね、ええ。
遊郭にいる人々のことを「女郎」といいますけど、
もともとの言葉は「上臈(じょうろう)」なんです。
身分の高い人のことを昔、上臈と言ったけれど、
江戸時代の遊郭で働く女性のことを示すようになって、
文字も「女郎」になったと考えられます。
落語で「じょうろ」と言っているのは、
この上臈の発音が残っているんじゃないかと。
糸井
おもしろいですねえ。
毅然として、すべての落語家が
「じょうろ」って言ってますよね。
飯間
志ん朝さんなんかも、
「じょうろ、じょうろ」ですね。
糸井
女郎(じょうろ)屋さんと言いますね。
はあー。言葉は聞いたことがありますが、
今日初めて知りました。
飯間
けっこう、古い言葉が残っていますよね。
糸井
落語は、あまりくるくると
回転しちゃったらいけない世界だから、
言葉が残るんでしょうね。
(つづきます)
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2017-01-18-WED