YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson311  頭の中の見えない差

人には差がある。

たとえば、私と黒木瞳さんが並んだとして、
まわりの対応から、なにから、
ことごとく差があるのはあたりまえの話だ。

もしも、そんな状況に身をおくことになったら、
私も、少しは落ち込むだろうけど、
必要以上にくよくよ悩んだりはしないだろう。

差が明解だからだ。

まず容姿。

ひと目で見て取れる。
何が、どう負けたのか。
だから、かなわないとあきらめて、サバサバするか。
今日から少しでも黒木瞳さん目指して、努力するか。

差がはっきりわかるから、そこから前に進み出せる。

だけど、学力差とか、学歴とか
頭の良し悪しの問題になると、もやもやする。

読者の2人は、こう言う。


=生じている差について客観的に理解したい

家族親族一同がマスター卒業の中、
私だけ勉強が大嫌いで短大卒なのですが、
これが後年こうも巨大なコンプレックスとなって
自分をさいなむとは思いもよらぬことでした。

もう38歳にもなるので、
この問題から早く脱却したいのですが
なかなかままなりません。

「どうして自分の人権を自分で認められないのか」
「学歴の正体とはなんぞや」
「コンプレックスの源泉はどこか」
折に触れ考えては、堂々巡りをしています。

そんな折、ほぼ全員中卒学歴という中国の工場で
通訳を始めました。
職工のみなさんは、
複雑怪奇な先端機器をいとも簡単に操ります。
そしてそこでは、理屈はいっさい抜き!
「甲か乙か」の単純世界です。

なんというか、この工場は
私のコンプレックス世界観からは対極にある場所で、
「すがすがしい」と感じてしまうのでした。

いつも自分を苦しめているのは自分です。
呪いがかかっているかのように
私に付きまとうもの(既成概念とか思い込みとか)の
正体がつかめません。

宗教のように「学歴と人の価値は関係ない」
「男女は平等である」を信じて大人になりましたが
実際社会ではもちろんそうではないわけで、
そのギャップが自分の脳内にも発生し、苦しむのです。

いい、悪いではなくて、
そこに生じている「差」について
客観的に理解したいと
ずっとうろうろして来ました。

(読者 中国在住の日本女性さん)


=わかりづらい魅力は
 どんどん魅力じゃなくなっている

Lesson308
「勉強のできる女は嫌われる、か?」


いわゆる高学歴女の1人として、
思うところは山ほどありました。

もしかして、嫌われるというより、
魅力をわかってもらいにくい、
好きになってもらいにくいのかな。
勉強で得られることが理解力であり、
「理解の深さは優しさであり、
 女性の魅力に反しはしない」
のだとしたら、たぶん、

色気=わかりやすい魅力
理解力=わかりにくい魅力

「わかりやすいもの」がもてはやされる社会。
人間関係も、表面的な社会。
友達や恋人同士ですら、深いところまで入り込まずに、
あっさりと別れてしまったりする時代です。

色気とかその場での話の面白さとか、
わかりやすい魅力で仲良くなって、
一歩踏み出してみたらやっぱり違った。
じゃ終わり、みたいな、
そんな人間関係。
理解力という、
わかりにくい魅力まで踏み込んでくる人が、
どれだけいるんだろう。

今の社会において、
じっくり付き合ってみないと
わかりづらいであろう理解力は、
ますます魅力に
なりにくくなってしまっているんじゃないか、
と思いました。

一方で、勉強って、非常にわかりやすいものだと
思われてはいないでしょうか。

それがいわゆる、学校でのお勉強。
テストの点数や通信簿で数字化されて、
とってもわかりやすい成績。

学生の頃、特に高校までの「頭がいい」は
すごくクリアカットだと思うのです。

親も子も、基本的にはいい成績、いい順位を取ろうと
頑張りますし、数値として目に見えるから明確です。
そしてその成果が、とりあえず「学歴」という、
これまた明快なものに置き換えられて。

そうしてるうちに、
勉強が持つ「わかりにくい」成果が、
どんどん見えにくくなっていくのではないか?

理解力がつくとか、集中力が上がるとか、
論理的にモノゴトを考えられるとか、
そういう評価って通信簿の端っこにあった気がするけど、
すごく軽んじられている気がします。

というかむしろ、中学高校あたりじゃもう無視されてる
といっても過言ではないかもしれない。
だいたい、聞いていてもなんとなく抽象的だし。
そういう能力がアップしたことに気づきにくい。

だからこそ、
「勉強なんて将来何の役にも立たない」って言う
子供が増えて、受験のためだけに知識を詰め込んで、
終わったらすっからかんに忘れてしまって。

小さい頃から、私たちはわかりやすいことに慣れすぎて、
わかりにくいことに目をやらない習慣を
つけてきてしまったのかもしれません。

私は小さい時からいわゆる優等生で、
「あなたは頭がいいから」というコトバに
ものすごく苦しめられてきました。

「絵が下手」といっても
「頭がいいからいいじゃん」とか。
「学級委員なんてできないよ」といっても
「頭がいいから大丈夫」とか。

「頭がいいから」で会話は終わりです。
それ以上、私は話に加えてもらえないし続かない。

そのせいで小学校高学年〜中学校ぐらいまでは、
孤独感と疎外感に
ものすごく真剣に悩んだことがありました。

(読者 Chieさん)


いわゆる私たちが、
「頭がいい」で片づけてしまっているものの正体、
実は、私たちは、その中身が、よくわからないでいる。

結局、なにが、どうちがうのか?

たとえば、いわゆる「暗記型の学力」と、
小論文で求められる
「自ら考える力」だけでも180度違う。
そこからさらに
自分の考えを人に伝える「表現力」も違う。

だから、「頭がいい」のひと言で片づけず、例えば、
「あの人は情報処理能力が高い、同じ情報なら、
平均の倍速く、ほぼノーミスで情報が処理できる」とか。

「あの人は理解力に優れ、
 人の話をよく聞き理解できる。
 だから自分と距離のある人の話も
 深く正しく理解する」とか。

「あの人は、
 問題発見力がすばらしく、論理的思考ができる、
 だから、問題解決能力が高い」などと、

もうすこし、きめ細かく
頭のよさを定義していくことができれば、
実生活・実社会で役立つイメージもわきやすいし、
なにが、どう負け、あるいは、勝ってるのか、
差を知る足がかりにもなりやすい。

何が、どう、負けてるのか?
わからないままに、なんとなく比べられている、
なんとなく劣っている感じがする、
というのが、人間としては、いちばんつらい感じで、
先へ進みだせない。それは、

「なんとなく
 自分の方が人間的にだめなんじゃないか?」

という、まちがった劣等感を生みやすい。

結局、なにが、どうちがうのか?
それがわからないと、
大学行くにしても、行かないにしても、
何を捨て、何を得ることになるのか、
よく、わからない。

だから、勉強の、
わかりやすい部分だけにとびつくようにもなりやすい。

読者の2人はこう見る。


=起因と結果のつながらないストーリー

学問って、
人生を豊かにするためにするものだったんですね。
Lesson310
「単文コミュニケーション社会」
を読んで、
私自身、そのことを信じてなかったと、
気づかされました。

そしてそれは、
勉強を奨める当時の身の回りの大人たちも、
学ぶことがもたらす豊かさを
知らなかったからではないかということ。

大袈裟にいえば、学ぶというより、
よい学歴を作れば、よい就職ができ、
そうすれば幸せな結婚ができるというような、
起因と結果のつながらないストーリーをベースに、
勉強を薦めていたのだと思います。

その設定が間違っていることは子供にもわかるから、
勉強に本気でのめり込んでは何かいけないように思い、
かといって、他のことに打ち込むよりは、
勉強を優先しなければならず、

どっちにしても、
自分を好きになれない状況でした。
早く、スポンサー付きの
子供時代を終えてからでないと
それ以上の権利は私にはないように思っていました。

勉強ばかりさせられたから
人はだめになるというのではなく、
学ぶことの目的が、自分の人生を豊かにすることだと
本気で理解できていたら、
やり方も、やめかたも、何か違っていたかもしれないと、
何となく思いました。

でも、自分さえ知らない、生きることの豊かさを、
カタチだけでも何とか学ばせたかった、
親の世代の想いをせつなくも感じます。

(読者 匿名さん


=大人に気に入られるための勉強

型にはまっている生徒の感想文は、
たとえば、本文の一部を引用した後、
「たいへんためになった。」
「いろんなことを考えさせられた。」
「これからの自分に生かしたい。」と続きます。

嘘ではないと思いますが、語彙が少ない。
言葉の数というより、
その言葉を用いている筆者がぼやけている。
そんな感じです。

先生や親に気に入られるように、
当たり障りのない
「いい子」の作文を書く生徒がいます。

だれかに愛されたい、
気に入られたいという思いは
誰しもあって当然です。
ただ、その訴え方は型にはまりすぎて、
少しも響いてきません。

(読者 通信制の国語の教師さん)


勉強が手段化されている。
それをとても残念に思う。

社会に出たとき有利なように、とは言われて久しいが、
子供が、愛され、認められる手段として、
というのは、聞いていて切なく、
この時代にますます増えそうだ。

人が声高に語らない頭の中の差を
どうして私が問題にするかと言えば、

頭の中は、教育によって伸ばせる!
そのことに確信があるからだ。

どんな動機でも、頭の中は伸びる。
よこしまな動機で勉強したっていい。
でも、どんな動機を持つかによって、
頭の中のどの能力を花開かせることができるかは、
ずいぶん、違ってくると、私は思う。

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『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
(河出書房新社)



『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
河出書房新社




『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2006-08-09-WED

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