YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson310  単文コミュニケーション社会

学歴に頼らず、成功した人が、
「学歴がなんだ! 
 学校の勉強がなんだ!
 そんなの社会に出て何の役にも立たない!」
と人前で言えばヒーローだ、拍手喝采がまき起こる。

でも逆はどうだろう?
勉強がんばってトップに立った人が、
勉強しない人に「なんだ!」と言えば、
とたんに反感を買う。
言ってはならないことになっている。

読者のフミさんは言う。

>今の、日本の、子どもたちが育つ環境は、
>「勉強が得意だ、好きだ、頑張りたい」
>と、とても言いにくい環境だと思います。
>(読者 フミさんからのメール)


それが音楽なら、スポーツなら、
胸を張って言えるのに。

「勉強より、本能だ! 経験だ! 人は心だ!」

そりゃあ、そのとーり。
そこに逆らう気など、私もまったくない。
それは、トランプでいう切り札なのだ。
それを言われると、グウの音もでない。

でもだったら、十代の大半を勉強に捧げたことは、
意味がなかったんだろうか?

2つ前のコラム「勉強のできる女は嫌われる、か?」
で、私は、学校の「お勉強」をやったら、
やった分だけ、確実に「理解力」が伸びる、と書いた。

現代文で言えば、
短い文章しか読むことしかできなかった人が、
長い文章を読めるように。
単純な文章から複雑な文章へ、
具体的な文章から抽象度の高い文章へ。

自分の中にある理解の部屋が、
ひとつ、また、ひとつと増えていくと、
それまで素通りしていたものごとに
取り込めるようになり、
さらに部屋どうしが連携して、
より自分から遠い、
より複雑なことまで理解できるようになる。

だからこそ、人の話をよく聞けるようにもなれるし、
深い域まで人をわかるようにもなれるんだと。
それは社会に出て役立つし、
理解は女性の優しさにも、つながると。

このコラムに、たくさんの反響を、
とくに、勉強をがんばってきたわりに、
なんとなく
肩身の狭い想いをしてきた女性からいただいた。

印象的だったのは、
「このメールは決して掲載しないで」
「名前はださないで」とやっぱり肩身が狭く、
コラムへの共感も、
声を潜めるようにしてくれたことだった。

だから、
ここでメールを紹介することができないのだけれど、
主題を押さえて再構築すると、たとえばこんな話だ。


<大卒なんて使えない>

都心で営業職をしている会社員です。
私のいる部署は、私だけが大卒です。

本社から子会社に出向してきた営業リーダーとして、
同僚をまとめなければいけない。
しかし、どうしてもうまくいかないのです。

「大卒なんて使えない。
 大学なんて他に能のない人間が行くとこだ」
と、こそこそ言うのでなく、
同僚たちは、堂々と私の前で、突き上げてきます。
本当にそう思っているのだなぁ、
と何回も思い知らされました。

私は、同僚を注意することがとても苦手です。
どうしてもお互いの論点がずれてきてしまうからです。

「どうしてこんなに
 私の言いたいことが伝わらないのだろう?」

同僚たちには、「リーダーの言うことはまわりくどい、
話が長い、わかりにくい」と取り合ってもらえません。
自分でもわかっていて、気にしていたことです。

それで、私は、まず結論をはっきり伝え、
「それはこういう理由で…」と
筋道だてて話すように心がけました。
それでも同僚が「リーダーはそうおっしゃいますけれど」
と反応してくることが、
「え、私そんなこと言ってないけど?」
ということなのです。

何回もこんなことがあって、
本当に私はダメな人間だ、と思い込むようになりました。

でもLesson308を読んで、はっとしました。
もしかしたら、これは「理解力の差」ではないか。

現代文で言えば、ズーニーさんが例えていた、
短い文章しか読めない状態の同僚が多いのではないか。

同僚たちは「いい」「悪い」と結論を急ぎます。
同僚の中には、自分に関係ないな、と思ったら
雑談にも応じない人もいます。

もし、そうだとしたら
理解の溝を埋めなければいけません。
でも、どうしていけばいいのか、思いつきません。
(読者メールを元に山田が再構築したフィクションです)



また、次は実際に来たメールで、
読者の女医さんは、こう言う。


<患者さんの理解には驚くほど差があります>

私は仕事上、月に数百人単位の患者さんに接し、
分かりにくい病状に関して理解していただこうと
できるだけわかりやすく説明しています。

同じ説明をさし上げても、
すぐに理解できる方と
ほとんど理解できない方がいらっしゃいます。

その違いは、
理論的にものごとを整理して考えられるか……、
ということではないでしょうか。

患者さんの理解力の程度は、
問診時の返答の際におおよそ見当がつきます。
要点を的確に他人に伝えられるかどうか。
これは驚くほど個人差があります。

私は学校での勉強の基本は
論理的に物事をどう理解していくかだと考えています。
(特に理系では。)
理解力が優れていれば当然学校の成績も優秀でしょう。
……ただ。イコール人間的な魅力にはならない。
(読者の女医さんからのメール)



これが、かけっこならば、
「あなた50メートル走、何秒?」
「7秒台!」「わたしは10秒台!」
あんたは速い、私は劣る、とカラッと言えるのだけれど、
「私の理解力が劣っている」とは、
人からは言われたくはない。

でもそうして、「何がどうなのか」をすっきり
させないでいるうちに、
かえって、大学のレッテルだけ見て、
人の中身まで判断するような、
まちがった学歴判断も、なくならないんじゃないのか。

反射的に思ったのが、
つい最近、20代の人から、たてつづけに聞いた、
「わかりやすいものが嫌い」という言葉だ。

小説なり、映画なり、わかりやすいものが嫌いと、
複数の若い人から、
一時に、あっちこっちで聞いたから、
なんだか印象に残っていた。

都心の、私の身近にいる若い人たちが、なんとなく、
「わかりやすいもの」をうさんくさく思いはじめている。

それは、ここのところ、ずっと社会を席巻してきた、
単文コミュニケーションの反動なのかしら、とも思う。

「わかりやすいもの」がもてはやされている。

複雑なものを複雑なままにわかりあうのは、面倒だ。
「Aという前提のもとに、
 BとCは対立の立場にあります。
 BとCの上位概念にくるのがDで……」
なんて、やられたら、頭がこんがらがって、
「だれかわかりやすく説明して!」と叫びたくなる。

そこでとびつきたくなるのは単文だ。

でも、単文にしたら意味までが変わってくることがある。
やっぱり、Aという前提を共有し、
BとC、そしてDの位置関係を頭にいれておかなければ、
その先、どーしても、理解できないことだってある。

つまり、学校行こうが行くまいが、
自分の努力と勉強で着実に伸ばせる「理解力」の方は、
いつ、どこまで、どんな風にして、伸ばしていくか、
自分にとって、けっこう重要な「選択」だったのだ。

複雑だけど大切な話を、複雑なままに理解する力を
鍛えるべきときに鍛えておかなかったら、

そこで、とびつくのは、単文。

わかりやすい単文。
印象的なワンフレーズ。

そこにのみ反応し、わかりがたい、けれど大切なものを
私たちは、見逃してしまうかもしれない。

読者のゆりさんは言う。


<私たちは難解なことをわかろうとした>

私の大学時代の友人が
「受験勉強は、社会人になってからの仕事の仕方を
(つまり段取り)を学ぶためにしてきた。」
と断言しておりました。

「絶対あんな微分積分なんて
 使わないのはわかっているけど、
 難解なことを理解しようとしたり、
 ゴールに向かって進むために受験勉強してきた。」って。

こういうことが早くわかる人っているんだなぁ。
(読者 ゆりさんからのメール)



経験に勝るものはない、そこに私も異存はない。

だけど、実体験では、決して出くわすことのない、
微積分の抽象的な概念、
決して生きることが出来ない
数千年の歴史というスケール、
肉眼では
決して見ることができない生物の細胞レベルのことを、
私たちは、十代のある時間を使って、わかろうとした。

少なくとも、わかるために努力した。
自分の中に、わかるための道をつくった。

そのことが尊いと、私は思う。

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『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
(河出書房新社)



『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
河出書房新社




『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-08-02-WED

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