YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson308 
勉強のできる女は嫌われる、か?

今回もまた、
世間を敵にまわすような、
鼻につくと言われそうな話をあえてしようとしている。

分けられない人間の能力を、
むりやり「勉強のできる人」と「しない人」に分け、
しかも、反感を買うとわかっていて、
できる方のかたをもとうとしている。

これには、ワケがある。

私は、実社会に出たころから、
いわゆる偏差値的なものの見方が嫌いになった。

働いてみると、仕事ができる先輩、できない先輩、
その差は歴然としていて、
それは、出身大学や、偏差値と関係なかった。

小論文の指導においても、
成績の序列、イコール、小論文のできの序列ではない。
決して。

どうしてかと自分なりに考えたが、
「自分の頭で考える」小論文の世界では、
生徒の「経験値」がものを言うからではないかと思う。

自称、勉強ニガテを名のる生徒には、
恋愛経験が豊富だったり、
スポーツをやっていたり、
場合によっては不良をしたり、
不良をして、ともだちが亡くなったり、
トラブルに巻き込まれて人生の選択を迫られたり。

体をつかった経験の豊かさが、もっと言えば失敗が、
実感ある文章につながったり、
マニュアルにはない自ら考える力を刺激したりする。

うちのオトンも、オカンも、大学なんか出てないけど、
りっぱに生きているし。

だから、勉強のできるできない、大学に行く行かない、
というのは人間の価値に関係しない
というのが、私の考えだ。

こうスパッと言い切ってしまうと、
ほんとうにそうだし、潔いのだけど、
ひとつ困った問題がおきる。

「それなら、うちら、何のために大学を出たの?」
ということだ。

「いまどき、大学を出たからって何になる?」
たしかにそうだ。
「受験勉強なんて暗記と応用、
 実社会に出て何の役に立つ?」
たしかにそうだ。

なら、なんのために大学を出たんだろう。

ディズニーランドのフリーパスじゃないけれど、
社会にでる上で、働く上で、
いちいち券を買うのが面倒で、
説明をよりラクにするパスがほしくて行ったんだろうか。

あるいは、「流される人間の代表選手」みたいに、
みんな行くから、長いものにまかれろ、と
とにかく大学にいったんだろうか?

青春時代を犠牲にしたとまでは言わない。
けど、二度とはこない十代の時間の大半をつかって、
親の「無いスネ」をかじり、
コツコツと受験勉強をがんばって、
それが、たったパス一枚のため、なんだろうか?

社会が努力して、
たくさんの人が
高校へ、大学へと行けるようにしてきたのに、
勉強をがんばったことや、
学校を出たことに、誇りを持ちにくく、
いや、自己肯定感さえ、もちにくくなっている。

むしろ、へたにお勉強なんかしないほうが、
よっぽど面白い人間になるんじゃないか?
私は、そういう考えに、とらわれた時期があった。

友だちは、大卒、中卒、高卒、
そこからさらにいろんな道に進んだ人と
さまざまなのだけど。

勉強ぎらいを自称し、さっさとそんなもん見切りをつけ、
学歴なんかに頼らずに、
体当たりで生きてきた人のほうが、
大勢の集まる「場」などで、
よっぽど話がおもしろい、と感じた時期があった。

ひと言でいうと、言葉に「場ヂカラ」がある。

その場に、いろいろな立場の人がいても、
たくさんの人がいても、
四の五の、まわりくどいことを言わずに、
イッパツで全員の体に届くような言葉力だ。

体温というか、肉感というか、野生というか、
そこから繰り出される言葉は、
場に置いて生きる。ライブ感がある。

一方、そういう場で、頭でっかちな人はぶがわるい。
まわりくどかったり、リクツっぽかったり、
少数の人には届いても、イッパツで場を席巻できない。
なんとなくつまらないと感じてしまう。

勉強をつめこむほどに本能が痩せる、と当時は思った。

とくに女性の場合、
本能から遠く、理屈っぽくなることは、
色気がなくなるとされやすい。
ほんとにそうなんだろうか?

当時の私も、小論文で、
論理とか文脈とか、がんばっていた時期で、
話がまわりくどかった。
大勢の場で、自分でも、はずしたな、と思い、
まわりをみると、やっぱりあきている。
もっとストレートに、もっとシンプルに、
自分の体温に近い言葉を、熱いうちに発せられないかな、
と意識したが、なかなかそうはいかなかった。
自分が面白みのない人間になっていくようで、
コンプレックスだった。

当時の私を知る友人は、
私が、長年ためてきたものを、
捨てよう、捨てようと、格闘している、と言った。
頭カラッポにして、
本能を呼び覚まそうとしていたのだろうか。

でも、いまになって、私は思う。

やっぱり勉強は、したほうがいい。
受験勉強だって役に立つ、ガリ勉だって悪くない。
つめこみと言われようが、つまらなかろうが、
大学までいって、
コツコツまじめに勉強して損はない、と。

すごく乱暴に言うと、
お勉強で、伸びる力は、「理解力」なのだ。

この「理解力」こそ、コミュニケーションにおいて、
それがなきゃはじまらない、というほど
大切なものなのだと、いまになって思う。

現代文で言えば、お勉強をすれば、しただけ、
「読む力」が伸びる。
短い文章を読むことしかできなかった人が、
勉強をすれば、
長い文章を読んで理解できるようになる。
単純な文章から、複雑な文章へ。
具体的な文章から、抽象度の高い文章へ。
現在の自分と近い内容から、違う時代のより遠い内容へ。
勉強をしたらした分だけ、
より遠く、より広く、より正確に
文章を読んで、理解できるようになる。

理解力を自分の中にある部屋とたとえると、
最初は、「熱い、寒い、おなかがすいた」など、
自分の肉感に近い、単純なものだけが理解できる
部屋がひとつあるとする。
しかし、お勉強で、
「より複雑なものがわかる部屋」を増設できる。
「より抽象的なことを取り込む部屋」も増設できる。
いったんそういう部屋ができると、
それまで素通りしていたことも、
自分のなかに取り込めるようになる。

そうして、
部屋が増えていくと、理解の容量が増えていく、
のみならず、さらに別々の部屋どうしが連携して、
もっと複雑なことが理解できるようになる。

いくつになっても勉強はできるし、
学校行かなくたって、この部屋は増やせる。
でもできるなら、十代までの頭の柔らかい時期に、
この部屋をどんどん増やしておくことで、
自分をとりまく世界の読み書きは
グンと自由になるんじゃないだろうか。

よく、子どもと動物には勝てない、と言われるが、
「本能」でしゃべっている人の言葉は、やっぱり強い。
場を席巻する。その力にはやっぱり勝てない。

でも、「本能」だけに走りすぎると、
この話が、自分に関係あるか?ないか?
面白いか?面白くないか?
のみで、人の話を聞くようにもなる。
そこで、ひっかからないものにはしらっとする。

コツコツお勉強してきた人は、
最初は地味だけど、途中から
非常によく、人の話が聞けていることに気づく。

自分と直接関係のないことも、
テーマから遠そうな話題も、
とりあえず、聞いて、理解して
取り込んでおける部屋が広い。

だから、
話が中盤から終盤にさしかかったときに生きてくる。

最初のころの話題と、終わりのころの話題、
あの人の話と、この人の話、
一見遠いものを、関連付けて、よりあわせて、
ひとつの脈絡をもって話すことができる。

理解の部屋数が多く、
違う部屋を関連付ける力が鍛えてあり、
論理の域が長い。

だからこそ、深い域まで人をわかり、
相手に深い満足をもたらすことができる。

理解の深さは優しさであり、
女性の魅力に反しはしない。

こういうコミュニケーションは
やっぱり勉強の賜物だと私は思う。

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『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
(河出書房新社)



『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
河出書房新社




『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-07-12-WED

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