HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN https://www.1101.com/home.html   「大坊珈琲店」 大坊勝次さんの38年            書籍『大坊珈琲店』刊行記念対談

第4回 「手応え」に支えられた15年。
糸井 38年前というと‥‥
大坊さん、お店をはじめたときの年齢は?
大坊 27歳です。
糸井 27歳で、深煎りがいいと思っていたわけですよね。
甘さを感じるコーヒーがいいと。
大坊 そうですね。
糸井 喫茶店をやろうと決めたときにはもう、
「俺はちょっとわかったぞ」
と思っていたわけですか。
大坊 いや(笑)、「わかった」といいますか‥‥。
あの、人生には‥‥ありますよね、
何を選択するかを判断しなければならないことが。
「再就職先を探して勤め人を続けよう」とか、
「思いきって珈琲屋をやろう」とか、
そういう、一種の岐路みたいなものがありますね。
糸井 あります。
大坊 もうすこし勤め人をやって、
資金を貯めてから喫茶店を始めるという選択肢と、
「もう決めちゃえ」という選択肢があったときに、
私は、「決めちゃえ」のほうに
足を踏み出したわけです。
その時点で、
自分のコーヒーが完成していたかというと、
まったく完成してなかった。
ただそのときも、やはりアパートの台所で、
深煎りのコーヒーを焙煎してました。
甘みが出るか出ないかばかりを探してました。
糸井 それをいっしょに探す仲間はいたんですか。
大坊 仲間と言いますか、
1年間だけ珈琲屋さんに勤めていました。
「だいろ珈琲店」というお店で。
糸井 「だいろ珈琲店」‥‥。
大坊 青山のお店です。
糸井 ああー、はい。そこはぼく行ってます。
いまはもうないお店ですよね。
大坊 ないです。
糸井 「だいろ」は、たしかに深煎りでしたよね。
大坊 そうです。
あそこで私は、それまでで
一番おいしいコーヒーに出会ったんです。
糸井 そうかぁ。
じゃあ、南青山でお店を始めたのは、
この辺でっていうのがなんとなくあったんですね。
大坊 まぁ、そうですね。
でも、自分は岩手県出身の田舎者で、
そのころ青山はすでに
最もハイセンスな街だったですから、
肌が合わないんじゃないかとも考えました。
糸井 そうですか。
大坊 でも、そういうコンプレックスを持っていたのに、
不思議だなぁと思うのは、
やっぱりそうするしかなかったんですね。
この場所で、自分を率直に出そうと考えたんです。
糸井 率直に。
大坊 自分にはそれしかできない。
味にしろ、使うものにしろ、流行ではなくて、
自分がいいと思うものを示すしかできない。
それをどのくらいの人が受け入れてくれるか‥‥。
糸井 よかったですね。
そのときに、「それしかない」と思えて。
大坊 ええ。
そうかもしれません。
糸井 そのとき下手に、
「ちょっとこの街に合わせた店に」
とか思ったら、今はないですね。
大坊 ‥‥ほんとうだ(笑)。
続けられていないですね。
糸井 率直に自分を出そうと決めた大坊さんは、
いくつかの約束をしています。
たとえば、「年中無休宣言」。
ご近所に配ったチラシにも書いてある。
大坊 はい。
糸井 それを、言っちゃったんですよね(笑)。
いや、ぼく自身も、
「ほぼ日刊イトイ新聞」ということをやってますが、
これを始めたときと似ているんです。
あのとき、
「そういえば俺は日曜日にやってる店が好きだ」
って思いついたんですよ。
「なんか食べに行こうか」となったとき、
日曜日にやっていると、
「よく開けててくれた」って、すごくうれしい。
他がみんな土日に休んでたので、
「じゃあうちは日曜日も開けよう」と。

ですから、これは、
自分に武器のない人間の思いつくことなんです。
大坊 ‥‥あぁーー、なるほどぉ。
糸井 なんにも、武器がないんですもん。
大坊 そうですね。そうです。
まったく、あのころ武器というのはなかったですね。
糸井 ないですよね。
で、自分でおいしいと思っていても、
それが通じるかどうかわからないわけですから。
大坊 そうです。おっしゃるとおり。
まったく通じませんでした。
しかし、何度も来てくれる人には
評判がいいわけです。
私が好きなものを好んでくださる、
そういうお客様がぽつぽつと、
ほんとにすこしずつですが増えてきました。
糸井 時間はかかりますよね。
大坊 はい。ですから妻には、
「あなたは経営者でもあるんですよ、
 すこしはそのことも考えてください」と。
糸井 (近くにいらっしゃる奥様に)言いましたか。
奥様 言いましたねぇ。
一同 (笑)
糸井 パートナーとしては心配ですよ(笑)。
大坊 そうでしょうね(笑)。
でも、その‥‥
私が淹れたコーヒーを飲んで、
お客さんが帰って行くっていう、
そういう行動の中に‥‥「手応え」と言いますか。
糸井 はい、はい。
大坊 なんて言うんでしょうね、
その、何かの「手応え」。
なんの根拠もないんですよ。
しかし、その手応えが、
自分にとっての応援と言いますか、支えでしたね。
糸井 あぁ‥‥。
大坊 売り上げが伸びないから、
お昼にパンをやるとか、
何か定食をやるとか、
いろんなことを周りから言われましたし、
自分でもそうしなければやっていけなくなるかなぁ
と思うこともありました。
数字はそれを示してるわけですから。
お昼にポトフっていうのをやろうかと、
試作をしたこともありました。
でも、ついにやらなかった。
糸井 やらなかったんですね。
大坊 やらなかった理由は、
その、根拠のない「手応え」です。
「手応え」だけが拠り所でした。
自分勝手な思い込みだったかもしれませんが、
「そのうち、いつかそのうち」と。
「大丈夫だ、大丈夫だ」って、思い続けたんです。
糸井 実際に、大丈夫になるまでには、何年くらい?
大坊 それは‥‥(長く考える)‥‥。
私のお店では最初、毎年の開店記念日に、
1周年パーティー、2周年パーティーなんていうのを
やっていたんですね。
いつも来てくださるお客様を呼んで。
それで、ある年のこと‥‥10周年の日でした。
台風だったんです。

ざんざん降りの雨の中、
来てくれると言っていた人を待っていました。
誰も来ません。
そのとき、雨を見ながらしみじみと思ったことを
よく覚えているんです。
「自分はこうして10年間、待っている。
 来るかどうかわからない人をずっと待っている。
 これからも待ってるんだなぁ」と。
糸井 はい‥‥。
大坊 当てもないのに待つことを今までやってきたし、
これからも待ち続けなきゃいけないんだと、
台風の日にあらためて思ったんです。
それで、そういう開店記念日のパーティーは、
もうやめにしました。
糸井 呼び込むことをやめて、「待つ」ことに決めた。
大坊 10年目のころは、
「来ないかもしれない」
という不安のほうがまだ強かった時期です。
それが‥‥どうでしょうねぇ‥‥
「大丈夫かも」とようやく思えたのは、
15年くらいでしょうか。
糸井 ‥‥15年。
「10年やっていっちょまえ」という説があって、
ぼくらはそれをよく言ってるんですが、
そうですか、10年でも足りなかったんですね。
大坊 不安でしたね。
根拠なき「手応え」だけの15年だったと思います。

(つづきます)
2014-07-22-TUE

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