ぼくは「想像」が得意。 ─クライマー・山野井泰史さん、その発想
第2回 ぼくは「想像」が得意。
─── 山野井さんはこれまで、
非常に危険を伴うクライミングを──
さらにいえば死と隣り合わせのクライミングも
たくさんされてきているわけですけれども、
山野井さんは、もしかして、
「死ぬこと」が怖くなかったりしますか?
山野井 いえ、死ぬのは怖いです。
小さいとき、すごく怖かったし、今でも怖いです。
ただ「死」は怖いんですが、
もしも今、
「あなたの命は明日で終わりですよ」
って宣告されたとしても、
ぼくは素直に
「はい、わかりました」と言うと思いますね。
─── 「死」への覚悟は、できている。
山野井 できてますね。
なぜかというと、ぼくはこれまですでに
「もう充分だろう」というくらい、
やりたいことをやってきたと思うんですよ。
だから、ぼくはもし自分の人生が
「明日で終わりです」と宣告されても、
「はい、楽しませていただきました」
と答える気がします。
ほんの少しだけ
「それならあそこの山も登っときゃよかったかな‥‥」
とか、残念に思うくらいじゃないかな。
だけど、そのくらい。
もちろん、まだまだこれからも
クライミングをしていきたいんですけどね。
─── すこし違う話になるかもしれないですが、
山野井さんは、これから登る山を
どのくらい先まで決めているものなのでしょうか。
山野井 昔は2、3年先に登る山まで決めていたけど、
現在はもう
「今の目標を達成してから、次を考えよう」
とやっているので、
先の予定は一切決めてないんです。
そして最近はちょうど
ずっと目標にしていた山に登ってきたばかりなので、
次の山が決まってないんですね。
‥‥だから、このごろのぼくは、
非常につらくてしょうがなくて(笑)。
─── 次の目標がないと、つらくてしょうがない。
山野井 登りたい気持ちがそんなに強くなければ
そんなにつらくないと思うんですけど。
だけど、ぼくは、いつだってものすごく強く
「登りたい!」と思っているから。
たぎるような情熱があるのに、
それを果たせる絶対的な目標がないというのは
つらいでしょう?
─── たしかに、そんな気がします。
山野井 だから最近のぼくは、
しょっちゅう山の写真を眺めては
次に登る山が見つかるのを待ってるんです。
近所の山に登ったりはしていて、
それはそれでおもしろいけど、それじゃ満たされない。
ぼくはもう「ここに向かって行くんだ!」と
全力で取り組めるような目標がないと、
ダメなんです。
まあ、そのうち見つかるんだろうけどね。
─── 山野井さんにとっての「登りたい山」とか
「目標になる山」というのは、
どのような山なのでしょうか。
山野井 ああ、そうですね‥‥やっぱりぼくが
ここに登りたい、登りたくないは
「見た目」ですね。
─── 「見た目」。
山野井 そう。ぼくが登りたいと思うのは、
見たときに、なんだか「イヤぁーっ!!」って
叫びたくなるような見た目のものなんです。
身体の奥のほうから
「‥‥ここ、危ないんじゃない!?」
って思いが沸き上がってくるような場所。
そういう山や壁がいいんです。
─── 危険を感じるほど、怖い場所。
山野井 そうですね。
そして、きっとぼくはそうした
非常に強い恐怖を感じるときに
同時に「登りたい!」と思っているんですね。
おそらくぼくにとっては、
「怖い!」という感情のなかに
登る意味が含まれているんだと思うんです。
怖さがないと登る意味がないとまでは
言わないですけど、
ぼくにとって怖さというのは
登る意味のひとつではあるんでしょうね。
だからぼくは、登る山を決めるときにも、
山の難易度などと一緒に、
「このくらいの怖さのものを登ろう」と、
無意識に条件に入れて考えている気がします。
─── はあー。
山野井 あと、自分にとって大切なのは、
「想像できすぎないこと」ですね。
登ったときに自分がどう行動するかの
想像がつきすぎる山は、
ぼくはたぶんやらないんです。
やっぱり行って初めて味わうのがよくて、
登ってみたときに
「カーブを曲がったらこんな景色が広がってた!」とか、
「登るとき、こんな音がずっと聞こえてた」とか、
そういう感覚を、味わいたいんです。
今はそれこそインターネットとかを使えば、
いろんな山の情報が手に入ると思うんだけど、
ぼくにはそういう情報は必要ない。
むしろ、事前にその場所の様子がわかってしまったら、
ぼくはもう、
「あ、行かなくてもいいかな」くらいに思うんです。
─── ああー。
山野井 だからぼくは
自分で山の文章を書いたりもしますけど、
そのときもできるだけ、
山の状態を発信しないように気をつけています。
出かけていった場所で、
「目に何が飛び込んでくるか」
「どういう風の音が聞こえるのか」
「どういう匂いが感じられるのか」
といったことは、
それぞれの人が自分で登って発見するのが
いちばんだと思うから。
そうじゃないと、
その人が行ったときの山のおもしろさを、
奪っちゃうことになると思うんです。
─── ということは、山野井さんにとって
文章を書いたり、本を出したりというのは、
実は「しなくてもいいこと」だったりしますか?
山野井 本来は、しなくていいと思ってますね。
だけどぼくが山の文章を書いてるのは、
将来、自分が年をとって動けなくなったときに
「ああ、こんなことしたな」って眺めたいからなんです。
いるじゃないですか、自分史みたいなのを書く人。
ああいう本って個人的なものだし、
べつに大して売れないと思うんですよ。
けれども、みんな書きたくて書いてる。
ぼくの文章って、そういうものに近いと思うんです。
─── 山野井さんが書いているのは、
自分のため、なんですね。
山野井 ええ、将来の自分のためですね。
というのも、残念ながらぼくは、小さいときから
この先の自分の想像がついちゃうんですよ。
「ぼくは歳をとるにつれて、
 だんだん、体がこう衰えていって、
 こんなふうに登れなくなって、
 最後は下手すると、
 縁側でひとり、ミカンでも食べながら
 山の写真でも眺めてるんだろうなぁ」
って。
今はこうして「インタビューしたい」とか
言ってもらったりするけど、
たぶん、あと10年もすればみんな、
ぼくのことは忘れてるだろうし。
─── ‥‥。
山野井 いや、それは別に寂しいことじゃない。
そういうものだし、
それはそれでいいと思うんです。
ただ、ぼくは昔から、
そんなふうに将来の想像がついちゃうんですね。
だから、そのときのために、
自分が登ってきた山のことを
文章として残しておきたいな、と思うんです。
「‥‥お、なかなか頑張ってるな」とかね、
あとで見たいから。
─── はぁー‥‥。
山野井 そして、おそらくぼくは、
そんなふうに先のことを冷静に想像するのが、
すごく得意なんだと思うんです。
それこそ10歳くらいのときに
テレビで山の映画を見て
「山登りっておもしろそうだな、やりたいな」
と思った瞬間から、
ぼくの人生は、こう、想像がついたんですよ。
「なんだか自分は、
 好きな山登りのことに打ち込んで
 うまく生きていけそうだな」って。
─── それは、つまり、山野井さんの人生は、
だいたい小さいときの想像どおりに
うまく進んできた、ということですか?
山野井 うまく‥‥いや、まあ予想では
もうちょっとだけ優秀な登山家に
なれている予定だったんですけれども(笑)。
でも、だいたいぼくの人生は、
小さいころに想像してた通りにきましたね。
そりゃあ話としては、
大きな裏切りとか、予想外のことが起きたほうが
おもしろかったのかもしれないけど。
きっとぼくは「想像」が得意なんですね。
遭難しかけたギャチュンカンの登山のときも、
周りの人から
「あの状況で、よくパニックにならなかったね」
とか、あとで言われたりもしたけれど、
あのときも特に、ぼくはパニックにはならなかった。
たぶんパニックって、
先の想像ができなくなって起こることでしょう?
だけど、ぼくは次に起きそうな状況を想像して
対処しておくのが得意だから、
あのときもずっと
「こんな状況になる可能性があるな」とか、
「次はこの道具を使うだろうな」とか、
そういうことばかり考えていたんです。
─── そして戻ってくることができた。
山野井 そうですね、帰ってこれましたね。
(続きます)
2013-10-22-TUE
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