きのうに続いて
46歳で歌舞伎の世界に入り
9代目市川中車を襲名した香川照之さん、
その父と子のお話です。


父と子の冒険[1]

休憩をはさんで口上の場面。
10人ほどだろうか、
正座したまま感謝と決意を述べていくのだが、
話をする人間以外は
両手を床に着いて下を向いている。
その中でも額が床につくほど
頭を下げていたのが中車だった。
口上の中に自分の名前が出ると
さらに深く身体を沈み込ませた。

隣には8歳の息子、團子(だんこ)が
やはり両手をついている。
でも時おり身体を起こしたり揺らしたり。
子どもには少々つらい姿勢に違ない。

口上を聴いているだけで
歌舞伎の型というものは、
学ぶというより、
いかに身体に馴染ませることが
大事かを感じさせる。

言葉の発し方ひとつとっても
節回し、声の裏返し方、抑揚と
長い鍛錬がなければ
決して自然に出てくるものではないのだろう。
中車の気持ちのこもった口上が
私たちの日常生活での
しゃべりに近いものだったのに比べて
元市川亀治郎である4代目猿之助の口上は、
身体の姿勢といい、しゃべりといい
歌舞伎の長き伝統が染み入る見事なものだった。

そして團子の口上、
「猿翁のおじい様より
 ずっと立派な役者になることが
 私の夢でございます」
と無邪気に述べると、会場は笑いに満ち、
最後に元猿之助の2代目猿翁が登場すると
その圧倒的な存在感に会場は沈黙し、
次の瞬間には割れんばかりの拍手が起こった。


続いての演目は「義経千本桜」。
4代目猿之助の襲名披露として
これも選び抜かれた演目なのだろう。
中車の演目とは対照的に
歌舞伎の伝統的な型を必要とするうえに、
3代目猿之助が人気を博した宙乗りや
早変わりなど「ケレン」と呼ばれる演出が
これでもかというほど施されている。
残酷なまでに、歌舞伎の世界での
中車との格の違いを見せつけるとともに
自分が猿之助を継ぐ人間だと
高らかに宣言しているようでもあった。

その芸に見惚れながらも
もし3代目の離婚という出来事がなかったら
この役を香川照之が演じていたのだと思うと
複雑な気持ちに襲われた。
口上の最後の場面、
猿翁が登場したときに抱いた感慨と
同じものだった。
そばに立つ中車が猿翁の実の子、
そして團子は実の孫。
香川照之は自分が継ぐはずだった猿之助を
息子の團子に託す思いから
歌舞伎の世界に飛び込んだのだろう。

本来ならば4代目猿之助の襲名が
話題の中心になるはずの公演は
猿翁、中車、團子3人の物語のほうに
むしろ注目が集まっていた。
4代目猿之助こそ
複雑な思いを抱いていたとしても
不思議ではない。


昼間の公演のあと
中車と團子ふたりの楽屋におじゃました。
入って右手に6畳ほどの畳の部屋があり
横に長い鏡の前にふたりが座っている。
何より中車の驚くほど穏やかな表情が
印象的だった。
連日、無事に舞台を
こなしている安心感なのだろう。
「周りの人に救われています。
 今はゆりかごにいるようです。
 この演目の間は
 穏やかでいられるんじゃないですかね」
「すごい存在感でしたよ」
そう言うと中車は照れくさそうに微笑んだ。
「そりゃあ、あの格好にあのメイクですから」

隣に座っている團子に声をかける。
「口上、緊張する?」
「緊張はしないけど、背中が痛いの。
 ずっと座ってると」
あっけらかんとして、人懐っこい。
「この子に救われてるんですよ」
中車は息子の横顔を見て目を細めた。

あいさつをして楽屋を後にするとき
團子と握手をしてもらった。
小さな手を包むと
驚くほど強い力で握り返してくる。
「長い道のりだけどがんばってね」
「うん」

のれんの向こうで親子が並んで
笑顔を見せている。
ふたりの物語はまだ始まったばかりだ。

(終わり)

2012-07-20-FRI
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