神業的ノミさばきを見に行こう!混んでも行くべき? 運慶展

第一回
世界でいちばん美しい足の裏。

──
今度の「運慶」の特別展は、
「史上最大」の規模で、
「奇跡の55日間」とも謳われていますが、
実際、ものすごく貴重な機会なんですよね。
山本
はい、そう思います。
私は運慶について40年以上勉強してきましたが、
最大の展覧会であることは間違いありません。
──
40年以上も運慶を。
そのきっかけをうかがってもいいですか。
山本
私が運慶に夢中になったきっかけは、
大学2年のときに出会った運慶の仏像です。
奈良の円成寺にある大日如来坐像
(だいにちにょらいざぞう)。
運慶20代の「デビュー作」といわれる仏像で、
国宝に指定されています。
当時の私は専門家でもなかったし、
仏像マニアでもなかった。
でも、それを見たとき、深く感動したのです。
「あぁ、仏像というのは、
人間の体をしているんだ」と。

国宝 大日如来坐像 運慶作
平安時代・安元2年(1176) 奈良・円成寺蔵
写真:六田知弘

──
「人間の体」。
山本
ええ。
「人間の体がなんでこんなに美しいんだろう」
とも思いました。
そこで、その像を作った運慶のことを知りたくなって
仏像の勉強をはじめたのです。
運慶の作品の特長は、とにかく「人体」なんです。
写実的に人体をとらえていて、
しかもいちばん美しい状態をつくれる。
そういう人なんです、運慶という人は。
──
人体の美しい状態‥‥。
もう少し詳しく聞かせてください。
山本
比較対象として、
運慶のお父さんである康慶のお話をしましょう。
康慶も仏師で、今回の特別展にも
康慶がつくった仏像が展示されているのですが、
やはり運慶とは大きな実力差があります。
たとえば、康慶の法相六祖坐像という
お坊さんの像があるのですが、
この作品には造形の破綻があります。
ひざを崩して座っている像なんですが、
ひざにかかる衣のひだを
おもしろく表現してはいるけれど、
「ここにひざがあるなら、
残りの足の部分はどこにあるのか?」
あるいは、
「立膝にしている像だとして、
この足をのばしたらどうなるだろう?」
というふうに考えながら見てみると、
人体として破綻があるんです。
──
なるほど。
山本
言い方を変えると、
父親には破綻を承知であえてやる
大胆さがあったともいえます。
一方、息子の運慶は、
そういう父においては未消化な課題を解消して
理想的な人体をつくっている。
運慶の像をみると、衣の表現もすばらしいけれど、
そのなかにある身体がしっかり表現できている。
──
ああ、表面の衣だけではなく、
「衣の中にある人体」を。
山本
はい。
たとえば、今回の運慶展には出されていませんが、
伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん)にある、
国宝の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)。
うずまくような気流、あるいは水が流れるような
衣の線を表していながら、
その中に、きちんと肉体がある。横から見てもすごい。
衣のなかにしっかりと身体があるから、
流れるような衣の動きをいくら表現しても
身体が衣に負けない。
細部まできちんとつくられている。
また、若いころの運慶は、
人に任せずぜんぶ自分でつくっているから、
仏像のできがとてもいいんです。
後半生はだんだんプロデューサーになって、
人をつかってつくっている。
今でいえば、売れっ子の漫画家みたいですね。
だから、一般にデビュー作といわれている
大日如来坐像は、運慶自身の手の動きがよく見えて
本当にできがいい。足の裏なんて、
「世界でいちばん美しい足の裏」です。
──
「世界でいちばん美しい足の裏」!
山本
足の裏というのは、
真んなかがへこんで脇がふくらむ。
あたり前だけれど、そのあたり前の形を
こんなにきれいにつくることができる人はいない。
仏像はだいたい足を組んでいるから
比べてみることができますが、
こんなにきれいにつくる人は他にない。
親指、2本めの指、3本め‥‥それぞれに表情がある。
それをこんな風に表現できる人は本当にいない。
──
運慶はどうしてそれができたのでしょう?
山本
運慶は、視覚的な記憶力にすぐれていると思います。
つまり、まず、目がすぐれている。
そして、それを表す手もすぐれている。
目と手、両方のすばらしさがある。
そこが彫刻家としての才能だろうと思います。
並の仏師がつくると、
そもそも「足の裏」に見えなくなってしまうし、
美しくもなくなってしまう。
──
素人っぽい質問かもしれませんが、
仏師が仏像をつくるとき、
「モデル」というのはいるのですか?
つまり、デッサンするときの「モデル」のような。
山本
そういう記録は残っていません。
そこが西洋とちがっているところです。
たとえばミケランジェロだと、
すぐ彫刻にできるようなデッサンがたくさん残っている。
でも、日本の仏像の場合、そういうものは残っていない。
おそらく仏像制作の過程では、現在もそうだけれど、
四角い材木の正面に「仏の正面の姿」を描いて、
横に「仏の横の姿」を描いたら、
もうそこからは、それを立体化するだけ。
──
つまり、仏像の完成形は仏師の頭のなかにしかない?
山本
そういうことだろうと思いますね。
──
はーー。
山本
西洋のように、モデルを準備して、
それをいろんな角度からデッサンして‥‥
というようなことは、
日本の美術の伝統のなかでは
なかったんだろうと思います。
仏師の頭のなかには視覚的な記憶が
たくさんあったのだと思いますが、
しいて言うなら、運慶は
動画的な記憶力に長けていたのだろうと思います。
ものを見るときに、ぐるぐる回って、
どういう形がどの瞬間にどう見えて、
どこがいちばん美しいかを、
動画的に記憶する力があったと思います。
──
それはまさしく、才能。
山本
まさに天賦の才だと思います。
努力してできるものだとは
私にはちょっと思えないですね。

(つづきます)

2017-10-23-MON

プロフィール
山本勉(やまもと・つとむ)

美術史家。清泉女子大学文学部文化史学科教授。
日本彫刻史専攻。1953年、神奈川県生まれ。
東京芸術大学大学院博士後期課程中退。
24年にわたる東京国立博物館勤務を経て、
2005年より現職。著書に『運慶大全』
『仏像のひみつ』『運慶にであう』など。
共著に『運慶 リアルを超えた天才仏師』。