宮城県気仙沼市
菅原茂市長

担当:藤田亜紗美(ほぼ日)

平成22年4月30日に宮城県気仙沼市の
新市長に就任された菅原茂市長。
市長職に就いて1年も経たないうちに
あの大震災がおこりました。
太平洋に面した気仙沼市は
津波やそれに伴う大規模な火災で
甚大な被害を受けました。
震災当日、市長はどのようなことを考え、
どのような判断をされていたのでしょうか。
当時のこと、そして現在の
気仙沼市についてお話をうかがいました。

現実があまりにも大きいと、
祈る気持ちにさえならないんです。

インタビューは「ほぼ日」オフィスにて行いました。

まずは、市長に当日のことからうかがいました。

「あの日は平日でしたから、
 私は気仙沼の市役所にいて
 通常の業務を行っていました。
 地震直後に思ったのは、
 『あ、来たな!』ということです」

えっ、地震を予測されていたんですか?

「予測というよりも、
 もともと、30年以内に99%の確率で
 宮城県沖地震が起きるという想定が出されていて、
 そのために気仙沼市では避難訓練を何度もし、
 さまざまな防災対策をしてきたんです。
 だから、強く揺れた瞬間に
 これがその想定されていた宮城県沖地震だ、
 と確信しました。
 同時に、庁舎が崩れるかもしれないということと、
 必ず津波が来るだろう、ということも思いました。
 ただ、津波といっても
 私だけじゃなく、多くの気仙沼の人は
 家が水に浸かるかもしれないな、くらいの
 レベルを予想していたと思います」

じゃあ、まさかあれほどの被害になるとは‥‥

「思っていませんでした。
 宮城県沖地震による津波浸水域を想定した
 『気仙沼市防災マップ』というものがありまして、
 津波の浸水被害がありそうな場所は
 あらかじめ分かるようにしていたんです。
 そのマップを見返すと、
 津波の規模と範囲が想定を上回っていました。
 それから、市役所は少し高台にあるので、
 私自身が、直接大きな波が襲ってくる様子を
 見たわけではないんです。
 情報もすぐには入ってきません。
 ですから、地震の後、
 すぐには被害の規模がつかめませんでした。
 しばらくして仙台平野が津波にやられる様子を
 テレビの中継で見て、これは相当な被害を
 覚悟しなきゃいけないと感じたんです」

宮城県沖地震を想定した気仙沼市の防災マップ。

想定をはるかに上回る大きな地震。
市長は「誰にとっても紙一重の世界だったんです」
と振り返ります。

「身内の話を例に挙げると、
 うちの家内は、あの日、眼科医院に行っていて、
 診察後の支払いをしようとしていたときに
 地震がおこりました。
 家は眼科よりも海側にあるんですけど、
 まず家内は車で家に戻ったんです。
 その途中、山側へと向かう道路が
 すでに渋滞していたのが見えたそうです。
 家に戻って、お袋と娘を車に乗せて、
 通常だったら、山側に避難したんでしょうけど
 渋滞していることがわかっていたので、
 近くのホテルに逃げ込んだそうです。
 もし渋滞を知らずに山側の道路に行っていたら、
 津波に追いつかれて、アウトだったでしょうね。
 家内だけでなく、誰もがそういうふうに、
 生死の境目の紙一重の状況に置かれていたと思います」

紙一重で生死が分かれ、助かった人たちは
行方不明になった人たちの救助活動をはじめます。
被害の全貌がつかめないなか、
市長はどのような判断をされたのでしょうか。

「映画ならば、私が司令官のようになって
 ここはまっすぐ行け、あれはこうしろ、
 というように指揮をとっているんでしょうけど、
 現実はそうではありませんでした。
 お膳立てされたストーリーがあるわけでも、
 判断すべきことが整理された状態で
 上がってくるわけではないんです。
 もう四方八方から、さまざまな話が
 しっちゃかめっちゃかに上がってきて、
 混沌としていました。
 今思うと、ものすごい数の決断を
 そこかしこで行っていたと思いますが
 とにかく第一に人命救助を
 優先することを考えていたので
 判断を迷うようなことはありませんでした。
 ただ、救助といっても、
 市内の救急車の数にも限りがあるので、
 助けたくてもどうしても数が足りないんです。
 その後、あちこちで火事もおこって
 火を早くおさめなくてはいけないのに、
 消防の力だけでは消すことができない。
 市内が夜通し燃え続けているのを見ながら
 なんとかして消さなくては、
 という焦りが募りました」

気仙沼市役所。この建物は少し高台にあるため
津波の被害は免れました。

震災の翌日に見たのは、
色彩がなくなった海でした。

長い一日が過ぎ、翌日。
市長は高台に登り、気仙沼の海を眺めたそうです。

「あの海の色は忘れられません。
 海が、いつもの青い色ではなく、
 黒というか、くすんだ茶色になっていたんです。
 色彩というものが全くありませんでした。
 映画なんかで、みんなが亡くなってしまって
 荒廃した場所で1人だけ残されるような
 シーンがありますが、まさにそういう光景でした」

色彩がなくなったという海を見て、
「この海が元に戻るには
 相当な時間がかかると思った」と市長は言います。
だけど、悲嘆に暮れている時間はありません。

「一夜明けても、火災はまだ続いていました。
 県外からの救助隊も到着し、
 ヘリコプターによる
 建物の屋上に取り残された人たちの
 救助活動が行われました。
 同時に、我々は遺体を安置する場所を
 確保することに必死でした。
 当初の地域防災計画で決めていた
 安置所に使うはずの体育館は津波で流されたし、
 他の体育館は避難所になっている。
 最初は『この学校を使ってもいいだろうか』とか、
 迷いつつ判断をしていたんですけど、
 運ばれてくる遺体がおびただしい数になっていくと
 迷っている場合じゃないんだと気づきました。
 安置所というのは遺体を並べるだけの場所ではなくて、
 行方不明になっている家族を
 みなさんが探しに来る場所なんです。
 とにかく早く場所を確保しなくてはいけませんでした」

震災翌日というと、まだまだ大きな余震が
頻発している中での作業です。
さきほど、奥様の話が出てきましたが、
ご家族のことも案じつつ、公務を続けるのにも
葛藤があったのではないでしょうか。

「当然、家族のことは心配でした。
 みんな、そうだったと思います。
 それでも家族を優先するわけにはいきません。
 市の職員で家族を亡くした人は大勢います。
 だけど、みんなそれぞれ重要な職務があるから
 お葬式のある日さえ、半日しか休もうとしませんでした。
 『休む』ということ自体考えないし、
 曜日のことも考えない。
 体が持つうちはやっていくしかない
 というのが当時の状態でした」

その場その場で、全員が
とっさに判断をしたと思っています。

「ほぼ24時間体制」で行われたという活動。
体力、精神力のバランスは
どのようにとられていたのでしょうか。

「もちろん人間ですから限界はあります。
 でも、生存者がいる可能性があるうちは、
 こっちは限界まで救助活動を
 するしかないと思っていました。
 生死の境目と言われる72時間、
 いや、実際には72時間を過ぎても
 まだ希望を持ってがんばっていました。
 一方で、スタッフが倒れてもいけません。
 遺体を探す人や、火事を消す人の体力を温存して
 長く部隊を持たせなくちゃいけない。
 そういう判断はしましたね。
 ただ、私どもがすべて指示したのではなく
 そのころには自衛隊も来てくれていましたし、
 みんなが自然とそういう決断を
 支えてくれたと思っています」

市長は、あまり一人称で語りません。
インタビューの間中ずっと、
「みんなが」「職員たちが」と強調されます。
それは、生き残った全員が一丸となって
あの日々を乗りこえてきた証のように思えます。

「それは当然ですよ。
 みんながサポートしてくれましたし、
 その場その場で、現場の人たちが
 とっさに考えて、できるかぎりの
 決断をしてくれたと思っています。
 『寒くて仕方ない』という声があったので
 体育館の暗幕を下ろして切って
 子どもたちの防寒用に使ったという
 報告も後からありました。
 暗幕を切ったらどう戻すんだとか
 後で誰が弁償するんだとか、
 そんなこと誰も考えませんし、
 全員が人命を優先してくれたと思っています。
 それから私は、市の職員のなかでも、
 遺体安置所の担当になった職員が
 いちばん大変だったと思っています。
 毎日、たくさんの遺体と接し、
 行方不明の家族を探しにきた人たちの
 泣き顔を見ながら応対しなくてはいけない。
 最もきつい仕事のひとつだったと思います」

その担当は、あらかじめ役割として
決まっていたのでしょうか。

「いえ、役割があったわけではなく
 最初に行ける人が自発的に行って
 とりあえず担当になったんです。
 だけど、どの持ち場も極端な人手不足だから、
 後から交代ができる状態ではありませんでした。
 極限状態のなかで、
 彼らは自分で自分を保つしかなかったと思います。
 今でも彼らは当時のことについて
 自ら苦労を話そうとはしません。
 生きている自分が『大変だった』なんて言ったら
 亡くなった方々に悪いと思うんでしょう」

「一人ひとりの中に、鮮明な記憶が残っていると思います」と菅原市長。

当時の状況を一気に説明してくださったあと、
市長は、個人的な思いを語ってくださいました。

「私自身、振り返ってみると、
 できるかぎりの判断はしていたつもりだけど、
 何か抜けているものがあったのではないかとか
 『やっていないこと、できていないこと』への
 思いというのが
 今でもどうしても残っています。
 それは非常に難しいですね。
 それと、当時のことではっきりと覚えているのは、
 よく人は、神も仏もないという言葉を使いますが、
 当時、私自身は祈るような感覚が
 全くなかったということです。
 神や仏を信じるとか信じないとかでなくて
 祈ることを超越した現実が目の前にあるんです。
 祈るなんて余裕がある人のやることで、
 現実があまりにも大きいと、
 神頼みをする心境にさえなりませんでした。
 その前に、現実にやることがあるんですから」

気仙沼に遊びに来てほしい。
それが私たちの願いです。

最後に、気仙沼市の現状と、
これからのことをうかがいました。

「住宅と産業をメインに復興計画を進めています。
 住宅については、計画はできていて
 工事もはじまっているので、後は遅れないように
 工事を加速させるしかないと思っています。
 産業に関しては、少しずつ進んでいますが、
 課題がまだまだあります。
 漁業、つまり海の上の産業は比較的回復が早くて
 みんな相当がんばっています。
 だけど、その海産物を使って加工する人たちの
 仕事に関しては、まだ問題が山積みです。
 工場を再開させたくても工事業者がいないとか、
 ライフラインが滞っていて動けないとか‥‥。
 でも、一歩一歩だと思っています。
 一方でコンビニエンスストアや、
 ラーメン屋、ドラッグストアなどが
 ものすごい勢いで市内にできています。
 コンビニエンスストアが増えると
 普通の店が建たないという問題もあるんですが‥‥
 とにかく今は、そういう状況ですね」

私たちが被災地にできること、
求められていることは何でしょうか。

「これまで、私たちはさまざまな
 ご支援を受けてきました。
 とてもありがたいことだと思っています。
 今後、産業面で言えば、
 気仙沼をフィールドとして
 仕事をしていただけたら嬉しいですね。
 また、個人という意味では、
 往来を続けてもらいたいです。
 理由は何でもいいので、
 気仙沼に来てほしいんです」

具体的なことが何もできなくても、
行くだけでいいんでしょうか。

「それはもちろんです。
 来ていただけるだけで、うれしいです。
 まだまだ十分復興していないのに
 見放されるんじゃないかという
 恐怖感をみんながもっています。
 私も、気仙沼にある屋台村の前を通るときに、
 ちょっと電気が消えているだけで不安になるんですよ。
 だから、遊びに来てほしい。
 にぎやかに復興するしかないと思っています。
 往来を増やすという意味では
 ほぼ日のみなさんや東北ツリーハウス観光協会が中心となって
 取り組んでくださっている
 東北に100のツリーハウスをつくるという事業も
 とてもたのしみに思っています」

(おわり)

2014-03-11-TUE