はじめにおじいちゃんのプランターがあった。~ご近所の芹澤さんが、こんなことを考えている~ はじめにおじいちゃんのプランターがあった。~ご近所の芹澤さんが、こんなことを考えている~
ずーっと「ほぼ日」とおなじビルに入っていた「プランティオ」さんが、おもしろそうな仕事をしてたんですよ。何やら? 野菜を? 最新テクノロジーで?孫泰蔵さんが認めた「スタートアップ」で、代表・芹澤孝悦さんの語るビジョンや、最先端のビジネスのことは、ふだん聞かない話だし、おもしろかったんです。でも、その「最先端」の核となる部分に、芹澤さんのおじいさんが何十年も前に考えた「プランター」が、あった。そのことに、しみじみ、感じ入りました。担当は「ほぼ日」の奥野です。全4回、どうぞ。 ずーっと「ほぼ日」とおなじビルに入っていた「プランティオ」さんが、おもしろそうな仕事をしてたんですよ。何やら? 野菜を? 最新テクノロジーで?孫泰蔵さんが認めた「スタートアップ」で、代表・芹澤孝悦さんの語るビジョンや、最先端のビジネスのことは、ふだん聞かない話だし、おもしろかったんです。でも、その「最先端」の核となる部分に、芹澤さんのおじいさんが何十年も前に考えた「プランター」が、あった。そのことに、しみじみ、感じ入りました。担当は「ほぼ日」の奥野です。全4回、どうぞ。
芹澤孝悦さんプロフィール
第2回
おじいちゃんのプランター。
写真
──
いわゆる「プランター」というものは、
芹澤さんのおじいさまが、発明された。
芹澤
はい。
──
ちょっと、意外な感じがしました。



日本人がつくったというのもそうだし、
そもそも「プランター」が
固有名詞だったとは知らなかったので。
芹澤
でしょうね、人口に膾炙してますから。



でも、実際のところは、
「亀の子タワシ」などと同じ日本語で、
祖父の造語なんです。
──
しかも、本家の「プランター」って、
百均で売っているような
単なる「プラスチック製の鉢植え」とは、
構造が、ちがうんですよね。
芹澤
はい、水と空気を循環させる仕組みが、
きちんと備わっています。



その仕組みは、祖父が、
種苗会社の「サカタのタネ」さんや
農大の先生と協力して、
約6年かけて、開発したものなんです。
写真
──
へえ‥‥。
芹澤
詳しい説明は省きますが、
プランター内に新鮮な空気を取り込み、
不必要な水は抜く。



プランター内の土と水の割合を
実際の地層と水脈の割合と同じに保つ、
そういうシステムなんです。
──
知らなかったです。
ただのプラの長い箱じゃなかったんだ。
芹澤
そうですね、あの長方形の箱のなかで、
「小さな自然」を再現する、
ということが、
祖父の描いたコンセプトでした。
写真
──
これまでずっと、何でもかんでも
「プランター」って呼んでましたけど、
間違ってたってことですね。



芹澤さんのところの「プランター」は、
価格も「2000円前後」して、
安いのにくらべたら値段も数倍するし。
芹澤
もちろん当時も、
陶器でできた素焼きの鉢のようなものは、
たくさんありました。



でも、水と空気の循環システムを備えた
「プランター」は、
わたしの祖父である芹澤次郎が
発明したものです。1955年‥‥でした。
──
なるほど、そういう時代に。
芹澤
会社自体は、1949年に設立しました。



芹澤プラスチック工業という名前で
立ち上げたんですけど、
それから6年、試行錯誤を繰り返して。
──
で、「1955年」に、ようやく完成。



そもそもおじいさまは、
なぜ、そういうものをつくろうと?
写真
芹澤
祖父は、戦争から帰ってきたあと、
祖母とふたり、
静岡の田舎から、渋谷の道玄坂上まで、
リヤカーを引っ張ってきたんです。
──
一旗揚げようと。
芹澤
ええ、2年くらいかけて。
──
2年。えらい時間かかってないですか。
芹澤
のんびり来たんだと思います(笑)。
途中、
調布に住んだりしたとも聞きました。
──
なるほど。
芹澤
そうやって各地を転々としながら、
やっと渋谷の道玄坂上にたどり着いて、
でも、代官山が越えられなくて、
「じゃあ、ここでいいか」って言って、
その場で創業したと聞いてます。
──
「プランターの会社」を。
芹澤
たぶん、終戦直後の時代には、
何をつくっても、発明になったんです。



物が何にもない時代でしたから。
写真
──
でも、そこで「プランターだ!」って、
どうして思ったんでしょうか。
芹澤
戦後の復興期から
1964年の東京オリンピックにかけての時期、
東京の街は、
ものすごい勢いで都市化していました。



ビルが建ったり、
大きなマンションができたりしていく反面、
「自然」や「緑」というものが、
祖父の目にまったく映らなくなっていって。
──
そもそも「焼け野原」だったわけだし。
芹澤
そう。



静岡から出てきた祖父としては、
人が、花や緑と触れ合う機会を失うのは、
一大事だと思ったみたいですね。
──
そこで「プランター」をつくろう、と。
芹澤
当時、代々木周辺を中心に、
どんどん団地が建設されていたんですが、
最初の動機は、
そこで花や植物を育てられるようにって。



そうやって、1955年に
ようやくプランターを完成させて、
その後、前回の東京オリンピックのとき、
東京中に広まったんです。
写真
──
おお。
芹澤
渋谷を中心に、沿道やお店の軒先が、
祖父のプランターで彩られていきました。



折しも、カラーテレビが出てきたときで、
東京の街に咲く花の鮮やかさが、
日本中、
ひいては世界中の人たちに伝わりました。
写真
──
色つきで。ようするに、
おじいさんのプランターのようなものは、
世界的にも、なかったんですか?
芹澤
そう聞いています。



だから、東京オリンピックをつうじて
祖父のプランターを知った
世界の人々が
「おお、東京の花壇はムーバブルか!」
と驚いたとか。
──
あらためてですが、
開発をはじめた1949年当時って、
生きるために必要なものへのニーズが、
まずは、あったと思うんです。



でも、おじいさまが情熱をかたむけたのは、
言ってみれば、
腹の足しにならないものだったわけで‥‥。
芹澤
やっぱり祖父は、東京の人たちが
花や植物に触れる機会を失うという事態に、
本質的な危機感を抱いたんです。



そういう状況は、
人間本来のありようから外れてしまうって、
憂いていたんだと思います。
──
なるほど。
芹澤
また、都内の小学校に採用されることも
決まっていたんですが、
とくに子どもたちのためにということを、
考えていたんだと思います。
──
たしかに、学校でよく見る感じがします。
おじいさまのプランター。
写真
芹澤
それこそ「学校」に関していえば
ある時期までは、
わたしたちセロン工業のプランターしか
置いていなかったはずです。
──
あ、そうなんですか。
芹澤
うちの近くの蕎麦屋さんもそうですが、
昔ながらのお店の軒先にあるのは、
祖父のつくったプランターが多いです。



かなり年季が入ってますけど、
30年40年選手で、がんばっています。
──
その後、時間が経つにつれ、
いろいろなメーカーで、つくられはじめて?
芹澤
そうですね。とくに高度経済成長期以降は、
さまざまな企業が、
今でいうガーデニングや
ガーデニングエクステリアの分野に
参入してきたので。
──
プランターという言葉も、一般化し。
芹澤
ただ、わたしたちは「命のゆりかご」って
呼んでいるんですが、
「その名に値するプランター」は、
祖父が情熱をかけて開発したもの以外には、
存在しないと思っています。
──
なるほど。
芹澤
土に水と空気をきちんと循環させるという
設計思想でつくられたものは、
祖父のプランター以外にはありません。



仕組みはコピーできるかも知れないし、
プランターという言葉も真似はできますが、
祖父が抱いた思いや、
そもそもの考えはコピーできないです。
──
そうですよね。さかのぼってはね。
芹澤
そういう意味で、
その根本の思想を抱いて形にした祖父は、
やはり偉大だったと思います。
写真
──
いまでは、プランターという言葉は、
他のメーカーさんも使っているんですか?
芹澤
古くからあるプランターメーカーさんは
うちに気を使ってくださって、
あんまり、そう呼んでいないと思います。



わざわざ「コンテナ」と言ったりして。
──
でも、その歴史を知らなければ‥‥。
芹澤
そうですね、一般名詞だと思って、
使ってらっしゃるケースも、ありますね。
──
ですよね。
芹澤
でも、祖父としては、
ライフスタイルに落ちるところまで、
自分のプランターを
普及させたかったんだと思うんです。



ですから、
「あ、プランターって固有名詞なんだ」
と意外に思われるほど
人々の生活に馴染んできたことは‥‥。
──
ある意味で、おじいさんの気持ちでも
あるかもしれない、と。
芹澤
はい。
<つづきます>
2018-12-05-WED