孫 泰蔵×糸井重里対談「ご近所の社長は、やっぱりすごい人だった。」 孫 泰蔵×糸井重里対談「ご近所の社長は、やっぱりすごい人だった。」
Mistletoe株式会社の孫泰蔵さんと、
糸井重里が対談をしました。
きっかけは孫さんがSNSで、糸井が尊敬する
岩井克人さんについて語っていたこと。
しかも孫さんの会社
「Mistletoe(ミスルトウ)」があるのは、
ほぼ日の事務所と同じビル。
そんな縁もあって、4月のある日、
ふたつの会社のメンバーが観客となった、
とくべつな公開対談がおこなわれました。
対談後、みんなが口々に
「おもしろかった!」と言い合った、
その日のトークをご紹介します。
(6)いまの時代のロック。
糸井
じゃあ、その楽しかった浪人1年目以外のときは、
孫さんにもずっと
「できなきゃつまらないだろう」
という思いがあったんですか。
そうですね。
父や兄の世代ほど根性な感じじゃないですけど。
僕は末っ子なんで、よく
「まぁのんびりしおんな」とか言われるんです。
ただ、僕は
ブルーハーツ(THE BLUE HEARTS)が
大好きだったんです。
糸井
なるほど。
そのブルーハーツのマニアックな曲に
「ラインを超えて」というのがあるんですけど、
「満員電車の中 くたびれた顔をして 
夕刊フジを読みながら 
老いぼれていくのはゴメンだ」
という歌詞があるんですね。
その感覚だけは、ものすごくよくわかったんです。
糸井
「こうなりたくない」というイメージだけは、
わりにくっきりしていたというか。
そうなんです。
大きなことは何も考えてなかったけど
「部品や歯車になりたくない」みたいな思いは
ずっと強くありました。
成功とかはどうでもよくて、
なにをするのでもいいと思ってましたけど、
「せっかく1度きりの人生ならば、
思い切り燃えたいなあ」とは思っていたんです。
ちょろちょろ何かやるというより、
ひとつ自分なりの大きなテーマがあって、
死ぬまで追求するような感じがいいなと
漠然と思っていました。
糸井
それは何歳くらいからですか。
高校生くらいからですね。
糸井
じゃあ浪人で楽しい時代にも、
その感覚はあったんですね。
そうですね。
思い出してみると、浪人1年目に
どうしてあれほど楽しかったかというと、
彼女のこともあるけれど、
自分が初めてレールから外れた気がしたんですよ。
なんだかんだ12年間
進学校に行ってましたし、
父、母、兄貴たちがわりと強烈な人たちなので。
糸井
あぁ。
あと、父が今でいうC型肝炎で、
まだ治療法が見つかってなくて
「余命3年」とか言われていたんです。
だから、母や一番上の兄貴が
必死こいて家計を支えてるのを見ながら
「ぐれてる場合じゃない」と思って、
すごく真面目にやってたんです。
ただ、どこかその状況に
息苦しさを感じてたんですね。
そこが浪人で初めて外れた感覚があって、
車の免許もとれて、すごく楽しかったんです。
糸井
もしその1年がなかったら、
今の孫さんはまた全然違うんでしょうね。
全然違うと思います。
糸井
その1回外れた経験みたいなものって、
大げさに言えば、
魂に来るじゃないですか。
不安もあるし、喜びもあるしで。
来ますね。もうなんだかよくわからない、
ない交ぜとした感じなんですけど。
糸井
「けものみち」を歩いてる感じというか。
道がないところに、自分で草を踏み倒しながら
道を作っていくみたいな。
ああ、そうですね。
糸井
それっていまだと、やろうと思わなければ
全くやらなくても生きていけるけど、
どこか「けもの」としての自分が
それを喜ぶんですよ。
だから僕はのちにロックを聴くようになりました。
自分のなかのワイルドサイドのために。
糸井
そうなんだ。そうだよね。
ロックといえば、
Yahoo! JAPAN の始めの頃に
「メガネマーク」というのがあったんです。
ヤフーがつける公式おすすめリンクですね。
メガネマークがつくと検索で上に来るんです。
糸井
はい、はい。
それで僕は当時、
日本のインターネットのページを
全部登録する作業をしていたんです。
1996年頭で、本当にいわゆる
研究者かオタクしかホームページを
作ってない時期だったんですけど、
そのときにシーナ&ロケッツ
(SHEENA & THE ROKKETS)の
鮎川誠さんのホームページを発見したんですよ。
それで
「鮎川さんがホームページ作っとうわー」
と見てみると、
ロックのことがいろいろ書いてあったり
「『DOS/Vブルース』って本を書きました」
とかあったりして
「うわぁ」みたいな。
糸井
ええ。
で、鮎川さんは地元久留米の大先輩でもあるし、
「かっこいいなぁ」と思って
メガネマークをつけたんです。
そしたらそれを鮎川さん自身がご覧になって
「info@yahoo.co.jp」に
メールを送ってこられたんですよ。
「鮎川誠です」と。
糸井
おぉ。
そして、そのメールは僕のところに
来るようになっていたので、びっくりして読むと、
「メガネマークつけてくれて本当にうれしいです」
みたいなことをすごく書いてあったんです。
そして
「実はホームページを作ってて、
悩みごとがありまして‥‥」と書かれてて。
糸井
聞きたいことがある?
そう。
「誰か詳しい方とお会いできる機会が
ありませんでしょうか」とあったんですよ。
「‥‥役得、役得」と思って。
会場
(笑)
それで鮎川さんのお住まいに
「詳しい人です」と会いに行ったんです。
で、僕はお会いしたらロックのこととか
いっぱい聞きたかったんですけど、
「はじめまして」と言ったら
「あぁ、よく来たねぇ」と言って即座に
「聞いていい? いま聞いていい?
ここがさ、ちょっとうまくいかなんちゃ。
どうしてかいな」
「あ、待ってください、こうやって‥‥」
みたいな感じで話が始まっちゃったんです(笑)。
そのあと
「そうか、あんた久留米ね。どこ中学ね。
附設中ね。俺は明善ばい」
みたいな話もできたんですけど。
糸井
はい、はい。
で、そのとき鮎川さんが
「いや、あのね」って言って、
忘れられない言葉をおっしゃったんです。
なにかというと
「俺が高校生や大学生のときにさ、
ストーンズやらビートルズやらキンクスやら、
もうバンバン、バンドが出てきてね。
それはもう、すごかったっちゃ。
アンプにガチンと差してガーンと鳴らせば
世界が変わる感覚があったとよ」
って。
糸井
あぁ。
さすがに僕にその感覚はわからないんですよ。
ロックがすごく大きい産業になってからしか
聴いたことがないので。
「でも、そうやったんよ」と。
それで鮎川さんが
「でね、インターネットがいまのロックばい。
俺はね、あんたたちがうらやましか。
俺が君たちくらいの年代の若者やったら、
もう絶対インターネットにのめりこんどうよ。
ロックやっとらんばい」みたいな。
「俺もロックやっとらんよ」と(笑)。
糸井
いや、よくわかります。
何度も言われたんです。
そのときなんだか「そうなんや‥‥!」と、
すごくグッと来たんですね。
糸井
「つまり、俺がビートルズだ」
となるわけですよね。
そうそうそう。そうです。
自分たちがなにか新しいものを作れば、
世界が注目するかもしれない。
それを思うと、ものすごくワクワクしました。
糸井
鮎川君は見た目は硬派だけど、
とても柔らかい人ですよね。
はい、とっても。考え方の幅も広くて。
糸井
それはでも、いい出会いでしたね。
本当にそうなんです。
(続きます)
2018-05-22-TUE