第6回 個性は、考えなくてもいい?
ほぼ日 ふつうは
作家性を全面に出していく美術館で
「日常のデザイン」という
商品のデザインの個展をすることを、
卓さんは、どう考えているのですか?

大量生産品は、人に影響を与えている

佐藤 ぼくの基本的なスタンスは、
「いろいろな人がいたほうがいい」
というものなんです。

右の人がいるから、
左の人がいられる。
反対の立場の人がいるから、
そうでない立場でいられるのだから、
ありがたいと思わなければいけないな、
という気持ちがありますから、
こうあるべきだ、と強く主張はしません。

世の中に対しては、いろいろな
アプローチがあっていいと思うし、
人それぞれでいいんじゃないかと考えています。

ただ、
芸術系の大学にいたから
言うわけではないけど、
アートというものが、
今、世の中で、どれだけの
影響力を持っているのだろうか……
とは、思うんです。
「かつてのほうが、
 影響力を持っていたんじゃないか」
と感じることはあります。

よほど、デザインのほうが、
世の中に対して
影響力を持てるんじゃないか?

とは、
「どちらがエライか」とかではなくて、
前から日常的に思っていたんです。

アートが、
これからの人の生きかたに対して、
示唆を与えるということが、
どれだけあるのだろうかな、と……。

デザインは、
世の中の
経済と関わったりだとか、
商業的な意味あいの強い渦中に
あるものだけど、
自分のしていることは
「経済を動かすため」
だけではないわけです。


ぼくがデザインに
たずさわっているのは、
「経済を動かすためだけ、
 を超えた実験をしよう」
という姿勢ですし、
実際に、世の中に
流通するものを通して、
人に何か影響を与えることは
できないか、と、
考えているところもあるわけです。

ぜんぶのデザインで
そうだとは言えませんけど、
量産品などは、まさに、
そういう姿勢でやっています。

日常生活のデザインを大切にする

佐藤 「ただ、売りさえすればいい」とは、
デザイナーたちは思っていないわけです。

商品の持つ潜在能力を利用しながら、
「もっと、多くのことが
 できるんじゃないかな?」
と感じているようなところもあるし、
どこからどこまでがデザインか、
ということについても、
いろいろと考える余地があるわけで。

自分がしていることは
「デザイン」ではあるけれども、
かつてデザインと言われていた範囲は、
超えているかもしれない……

そのあたりは、世の中の人に
判断してもらえばいいのであって、
自分はあくまでも、デザイナーの立場で、
デザインに片足をおいておきながら、
もう片足は、ほかのところにもいこうか、
というふうにやっているんですね。
デザインのことを、定義したりはしません。

世の中のインフラを通して商品が流通する……
そのことによって、
もしかしたら、すごい大きな影響があらわれて、
何かの「いいきっかけ」になるのかもしれない、
とは、仕事をしていて、よく思うんです。

そういうところで、
かつて言われていたアートというものが
どれだけ、世の中に対して
影響力を持っているのかな、とは思います。

「今の時代のデザインは、
 もう、アートと言えるのではないか」
という問いをしたいわけではないんです。
「デザインというのは、
 試みのやりかたによっては、
 アートの要素を含むのではないだろうか」
というのが、ぼくの問いかけです。

ふたつを、わけることではなくて、
わけて、戦わせることでもなくて、
どこからどこまでか、
定義をするのでもなくて、
どちらも重なりあうところがあるんじゃないか、
というか……こういう場所で
デザインの個展がおこなわれること自体が、
何かを証明しているのでないかと思いまして。

この個展の話をいただいたとき、
なにか、すごくうれしかったんですよ。
自分が、ずっと思っていたことが、ここで
世の中に提案できるぞ、と思いましたから。

デザインなのか、
アートなんかなんて、
一般の人から見れば、
どうでもいいことかもしれない……。
だから、目の前にあるものから
何を受けとるのか、ということを
つきつめればいいわけで、
そういう場所を提供できればいいな、
と思って、準備をしているところです。

日常にひそむデザインというものが、
じつは、すごくたくさんあるんです。
今は、あまりにも便利で
すぐ手に入って
すぐ捨てられるサイクルで
商品があつかわれていますから、
人とモノの距離が遠くなっています。
手に入りやすいんだけど、
じつはそのモノの情報は
ほとんど知らない。
モノの背景を、何にも知らない。

「天然水」と書いてあったって、
いったいどこの水をどうやって汲んで、
いつの水なのかもさっぱりわからない、
というモノを、じつは飲んでいる。

モノは近くにあるけれど、
じつはすごい距離があるわけで、
その人とモノの距離を
近づけたいと思っています。
近づけることによって、もっと、
モノや人を大切にする気持ちが
生まれたりすればいいんだと思っています。

作家性がないと、表現ができないのか?

佐藤 個性や、作家性についてですが……
無理して個性を出さなくてよかったんだ、
と、仕事をずいぶんつづけたあとに
ようやく、思えるようになりました。

出身大学が
東京芸術大学だったせいか、
作家性の強い人を
周囲でたくさん見ていましたし。
「作家性は、
 どこかになければ、
 いけないのかな」
と、半分ぐらいは、
会社にはいったときも、
独立をしたときも、
思っていたわけです。

「仕事だから、作家性なんていらないよな」
と、あとの半分ぐらいでは、考えていたり。

でも、
作家性を出すことは、
自分にはどうしてもできませんでした。
「やっぱり、オレは、ダメなのかなぁ?」
なんて思いながらも、
仕事をつづけるうちに
「作家性がなくても、
 仕事のデザインは、
 ちゃんと、機能はしているよな」

と、だんだん、わかってくるわけです。
それは、別に、
誰に教えられるというわけでもないし
教えてくれる人なんていないんですが。

つまり、
自分だけの手ごたえなんだけど、
だんだんと、
「これでいいんだ」と
自信がついてくるわけです。

芸大みたいなところが出身大学だと、
はじめから、そういう
「作家性を意識する」みたいなことが
植えつけられるようなところもありましたし、
そういう意識を持った人たちが
集まってくる大学、
というところもありますから、
自分の中でも、作家性を意識する部分は、
あるにはあったのだと思いますけど、
それが、だんだん、減ってきた……。
完全にないかどうかはわからないけど、
どんどん、弱くなっていったんですね。

同年代にも、後輩にも、
大学で出会った人には、
チカラのあるアーティストが何人もいました。
たとえば、
イラストレーションを入口にして
チカラをつけていった人もたくさんいますし、
個性的な人たちが
世の中に出ていったときに、
ぼくは、地味に
版下に写植を貼りこんでいたわけで。
「ああいうような作家性がないと、
 世の中には、出られないのだろうか?」
と思ってしまうところがあったんです。


作家性のある人は、
世の中に出るのがはやいから、
作家性のない人は、
どうしても、そういうことを
考えてしまうのかもしれません。

でも、
ぼくの場合は、何も作家性は見えてこない。
やっても、やっても、
作家性なんて出てはこない。
そこで……
時間がかかったんですけども、
「あぁ、オレは、
 これでいいのかもしれない。
 すくなくとも、作家性がないのは、
 デザインの仕事で
 『まちがい』というわけではないんだ。
 世の中で機能するものを提供できればいい」
と、考えられるようになってラクになりました。

「自分」が、問題ではないのだし、
「絵画」を、自分で描きつづける必要もない。
「みんながみんな、作家性を出して
 自己表現をしていく必要は、ない」

と思うようになりました。


(次回に、つづきます)


佐藤卓さんのこれまでの
ほとんどの仕事を見られる大規模な展覧会は、
10月21日に開催されはじめました。
これから3か月間、おこなわれてゆきます。

この3か月のあいだに、
みなさんからのデザインについての質問や
佐藤卓さんの言葉への感想などを、
卓さんに伝えてゆこうと考えておりますので
質問や、感想など、ぜひ、
postman@1101.com
こちらまで、件名を「日常のデザイン」として
お送りいただけると、さいわいです。

2006-11-06-MON

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