サンパチマイクが、生まれる場所。

サンパチマイクが、生まれる場所。

糸井重里、大分県の「ソニー・太陽」へ。

サンパチの愛称で知られる
ソニーのコンデンサーマイクロホン
「C-38B」をつくる工場は、
日本、いや、世界で1か所しかありません。

もっというと、その工場のなかでも、
サンパチを組み立てられるのは、
限られた職人さんのみだそうです。
そんな特別な場所「ソニー・太陽」へ、
糸井重里が向かいました。
そこで見た光景、聞いた話、感じたこと、
全5回にわけておとどけします。
#01 「ソニー・太陽」という会社。
大分県日出町(ひじまち)。
ここにソニーの「音の入口と出口」を担う、
ソニー・太陽株式会社があります。



先日、サンパチマイクこと、
ソニーの「C-38B」を購入した糸井重里。
その話が先方にも伝わり、
このたびサンパチマイクの製造工場を
見学させてもらえることになったのです。
わーい、うれしいーー!
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この会社がつくっているのは、
マイクロホンやヘッドホンのなかでも、
主にプロが使うハイエンドモデルです。
糸井が買った「C-38B」の他にも、
レコーディングスタジオやYouTubeの
「THE FIRST TAKE」でもおなじみの
「C-800G/9X」や「MDR-CD900ST」などの名機が、
この工場でつくられています。



ソニー・太陽とは、どんな会社なのでしょうか。
それを知るのに欠かせないキーワードが、
「ものづくり」と「障がい者雇用」です。



じつはソニー・太陽は、
ソニーグループの「特例子会社」であり、
社員の約6割の方々には障がいがあります。
肢体、聴覚、精神など、
その障がいはさまざまだそうですが、
ソニー・太陽のなかには
「障がい者枠の仕事」というものがありません。
やりたいこと、できること、
本人の適性と仕事をマッチングさせ、
すべてのセクションで健常者といっしょに、
全社員が分け隔てなくはたらいています。
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工場に到着したほぼ日一行は、
まずは会議室にて、
西島史隆さん(前社長)、大槻健二さん(現社長)、
そして人事総務部の佐藤祐親さんから、
会社の成り立ちについて、
くわしく教えていただきました。
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ふたりの情熱家の出会い
ソニー・太陽の設立には、
ふたりの情熱家が大きく関わっています。



ひとり目は、
「日本パラリンピックの父」と呼ばれる
整形外科医、中村裕先生です。



1964年の「東京パラリンピック」で
選手団長を務めていた中村先生は、
そこで大きな衝撃を受けました。
それは、大会に参加していた海外選手たちが
「自立して、仕事を持ち、
人生を楽しんでいる」のに対し、
日本の選手たちは大会が終われば、
ふたたび病院や施設へ戻るしかなかったのです。



「世に身心障がい者はあっても仕事に障害はありえない。
身障者に保護よりはたらく機会を」



中村先生はその理念のもと、
1965年に障がい者の自立支援のため、
「太陽の家」を設立することになります。



一方、ソニー創業者のひとり、井深大さん。
彼はそんな中村先生の想いに共感して、
1978年に「ソニー・太陽」を共同設立します。
そのとき井深さんは社員に向けて、
このようなことばを残したそうです。



「障がい者だからという特権なしの厳しさで、
健丈者の仕事よりも優れたものを、という信念を持って」



この井深さんの企業理念を守るため、
現在もソニー・太陽では、
製品の一部や半製品をつくるのではなく、
最初から最後まで責任ある仕事をするために、
一貫体制による「完成品」をつくりつづけています。
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ちなみに、ソニー・太陽が設立した1978年というと、
企業に「障がい者雇用」を求める
法律(特例子会社制度など)などもなかった時代。
「障がい者にもはたらく喜びと自立を」という、
ふたりの純粋な情熱によって、
この会社がつくられたことになります。
「ものづくり日本大賞」受賞
ソニー・太陽が誕生して今年で48年。
現在のような就労環境にたどり着くまでは、
チャレンジの連続だったそうです。



かつてはベルトコンベア式による
効率を重視した製造をしていたそうですが、
社員の障がいの差もあって、
当時はさまざまな問題があったそうです。
そこから個々の能力を活かす「セル生産方式」へ進化。
デスクの設計や道具の配置などを改善させ、
「人を活かしたものづくり」にシフトしていきました。



こうした取り組みが認められ、
2007年には「ものづくり日本大賞」を受賞。
「障がい者」という福祉的な評価ではなく、
純粋に日本の製造業のなかでも、
トップクラスの技術と品質が
認められた瞬間でもありました。
これからのソニー・太陽
時代の変化とともに、
ソニー・太陽はチャレンジ精神も忘れません。
雇用を守り、さらにチャンスを広げるため、
現在はものづくり以外のビジネスもはじめたそうです。



技術情報や環境データ管理業務。
ウェブページ制作や製品の検証業務。
マイクロホンやヘッドホンの製造だけでなく、
設計開発から携わるようにもなりました。
さらには、障がい者雇用のノウハウを活かした
雇用推進をサポートする活動、などなど。



プレゼンの最後に、
佐藤さんはこのように締めくくります。



「私たちはやっぱり、誰もが受け入れられる、
そういった社会を目指したいと思っています。
そのために私たちにできることは、
まずはやっぱり障がいの有無にかかわらず、
ここにいるソニー・太陽のメンバーが、
元気に、活き活きとはたらくこと。
そしてその姿を世の中に向けて、
どんどん発信していくことだと思っています」
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▲ソニー・太陽株式会社:人事総務部 佐藤祐親さん
糸 井
ありがとうございました。
佐藤さん
こちらこそありがとうございました。
糸 井
「一般的な会社はこうだよ」ってことでいうと、
ふつうはなるべく安定を求めて、
流れるような設計をしていくと思うんです。
人がいなくてもできる仕組みにしたり。
でもいまのお話は、ぜんぶその真逆に思えて。
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佐藤さん
そうですね(笑)。
糸 井
それはやっぱり長い時間と、
ひとりひとりの意識がそこにないと
「やりはじめたけど終わったよ」って
ことだらけになっちゃう気がしたんで、
いやぁ、すごい会社だなって。
西島さん
真逆のようにも見えますけど、
人の能力が発揮されることによって、
じつはそっちのほうが
結果的に効率がいいってことも、
ほんとうはあると思うんですよね。
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▲ソニー・太陽株式会社:前・代表取締役社長 西島史隆さん
糸 井
そうですね。
西島さん
さっき佐藤が「発信」ということばを使いましたが、
こういうことを実行、実践して、
それを世の中に発信していくことで、
少しでも何かが伝わるといいなと思っています。
ですので、きょうは、
こうやってほぼ日さんにいらしていただけて、
私たちもすごくうれしいんです。
糸 井
ありがとうございます(笑)。
いやぁ、きょうはサンパチマイクの話を
聞きに来たつもりだったんですけど、
いまの成り立ちのお話はとても興味深かったです。

パラアスリートの話があって、
お医者さんがいて、資本を持った起業家がいて、
まったく違う世界の人同士が、
最初から「こういう理念でやろう」と言って
ここをはじめたわけですから、
すでに成り立ちから起伏がありますね。
西島さん
まさにそういうはじまりですね。
糸 井
実際に従業員の分布を見ると、
あらゆる部署に障がいのある方々が、
半数くらいいるわけですよね。
それがもうすごいと思います。
誰かが号令かけたからって、
できるようなことじゃないですよ。
西島さん
われわれのような
中村先生の想いから生まれた会社が、
じつは他にも数社あります。
ときどきお互いに刺激し合っているのですが、
やっぱりすべてのベースには
中村裕先生の想いがあるんですよね。
やっぱり60年前の、
先生の強い理念から出発しているんだなと。
糸 井
ソニーの井深さんも、
「寄付とか福祉じゃない」というのを最初に決めて、
そこから二人三脚でやる発想だったわけですよね。
それが、もうすごいことだなって。
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西島さん
ほんとにそう思いますね。
糸 井
ここではたらく人の募集は、
どんなふうにされているんですか。
佐藤さん
他の、ふつうの採用活動と同じだと思います。
糸 井
障がいのある方々は、
「ソニー・太陽を受けてみようかな」
みたいになっているんですか。
佐藤さん
そのあたり時代がかなり変わりまして、
障がい者採用市場でいうと、
じつはいま引く手数多なんです。
糸 井
あ、そうか。
つまり、法律が絡むから。
佐藤さん
はい。
糸 井
それはきっといいこと悪いこと、
両方があるんでしょうね。
西島さん
おっしゃる通りです。
そこをやっぱり見直す必要があるんじゃないか、
というような話も出はじめています。
糸 井
いいことだと決めて「やれ」ってなると、
「コレとコレをやればいいんですね?」みたいに、
どうしてもなりがちですからね。
ここはそうなる前からあるわけで、
やっぱり最初のふたりがすごかったんですね。
大槻さん
そうですね。
中村先生はいまでも
「障がい者スポーツの父」と呼ばれたりしています。
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▲ソニー・太陽株式会社:現・代表取締役社長 大槻健二さん
糸 井
中村さんが学んだドイツという国は、
当時からそのあたりが進んでいたってことですよね。
大槻さん
もともとはドイツ出身の
ルートヴィヒ・グットマン博士という方が、
第二次大戦の傷病兵のリハビリに
スポーツを取り入れはじめたと言われています。
当時、日本の傷病兵が家に帰るまで、
2年から3年かかっていたそうですが、
ドイツでは半年ほどで回復していたとかで、
中村先生はそのようすにも衝撃を受けたそうです。
糸 井
はぁーーっ。
大槻さん
中村先生はそれを日本に取り入れようとしたけれど、
最初は批判もあったみたいですね。
「障がい者を見せ物にするな」と言われたり。
糸 井
あー、当時は。
大槻さん
でもそこを信念を持ってやりつづけ、
日本でのパラリンピックを成功させました。
そして今度ははたらく機会をつくるということで、
日本の創業世代の企業家たちといっしょに、
このような場所をつくったという。
糸 井
それが1960年代の話ですよね。
大槻さん
「太陽の家」の創立が1965年ですね。
西島さん
なので、サンパチと同世代だ(笑)。
一番最初のモデルが65年なので。
大槻さん
そうですね(笑)。
糸 井
いやぁ、なんだか不思議なご縁だなぁ(笑)。
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(つづきます)
2026-03-30-MON