「はたらきたい展。」 斉藤和枝+河野通洋+糸井重里 トークイベント  「なにもない」からの出発。  ことし6月に東京・渋谷パルコで開催され、 たくさんの人に来ていただいた『はたらきたい展。』。 その期間中に、会場内で開催され とてもおもしろかった座談会の模様を、お届けします。 それは、気仙沼・斉吉商店の斉藤和枝さん、 陸前高田・八木澤商店の河野通洋さんと 糸井重里による座談会です。 和枝さん、河野さんともに  「ほぼ日」ではすっかりおなじみですけれど この3人で「座談会」するのは、じつは、はじめて。 会場の都合でたった一時間のトークでしたが 本当に濃くて、おもしろくて、 聞いたあと、いろいろ考えたくなるお話でした。 全4回の連載、ぜひともお読みください。 なお『はたらきたい展。』は 12月28日(土)より、 大阪・梅田ロフトでの開催が決定しました。 詳細はまた、追ってお知らせしますね。
東北の仕事論。斉吉商店篇 東北の仕事論。八木澤商店篇
 
糸井 ギュウギュウ詰めで申し訳ありません。
糸井重里です。
会場 (拍手)
糸井 そして、気仙沼・斉吉商店の斉藤和枝さん、
陸前高田・八木澤商店の河野通洋さんです。
会場 (拍手)
糸井 この混雑を続けるわけにもいかないので
今日はすみません、
いつものようにダラダラとはいきません。
会場 (笑)
糸井 なので、ちょっと短いかもしれませんが、
一時間ほど
お話をしていきたいと思っています。

ではさっそく、前提抜きでいきましょう。
和枝 よろしくお願いします。
糸井 おふたりのことをご存知のかたは
もう、たくさんいらっしゃると思うんですが
あらためて、
和枝さんは気仙沼から、
河野さんは陸前高田から来てくださいました。

ふたりとも「仕事の手段を失う」ってことを
2011年の3月11日に経験されました。
河野 はい。
糸井 そこでまずは、
あの地震、そしてあの津波に襲われたあと
どういう状態になってしまったのか。

そのあたりから
あらためておうかがいできればと思います。
和枝さん、いかがでしょうか。
和枝 はい。
糸井 陽気な人です。
和枝 はい(笑)。みなさま、こんにちは。
斉吉商店の和枝と申します。
よろしくお願いいたします。

私たちの場合、
震災では、生産工場と冷蔵庫とお店、
そして自宅がなくなりました。

水産加工業なので
すべて海の近くに建っておりまして、
それが、
ちっちゃな自慢だったりもしたんですけど、
すべて流されてしまいました。
糸井 人の命は、大丈夫だったんですか。
和枝 はい、すごく恵まれていたと思うんですけど、
うちでは家族も、社員も。

いちはやく避難することができまして、
みんな、助かったんです。
糸井 ただ、命以外は何もない状態。
和枝 あ、着てた服は、ありました(笑)。

斉吉商店は、有事のときは白衣を着たまま
逃げるということが決まっていたので‥‥。
糸井 そうなんですよね。
和枝 だから、みんな白衣に長靴姿で逃げました。
私は工場にいたわけでないので、ふつうの‥‥。
糸井 素敵なドレスで。
和枝 はい、いえ、ふつうの洋服で(笑)。
仕事の手帳や鞄だけは持って、避難しました。
糸井 3月11日は、寒かったと思うんですが。
和枝 寒かったです。
糸井 そういう格好はしていらっしゃったんですか。
和枝 いえ、ただのセーターとズボンです。
糸井 河野さんのところも、同じような感じですか?
河野 うちは、社員で亡くなった人がいるんです。
社員の家族も、かなり亡くなっています。

そういう意味で、本当にきつかったですね。
糸井 ああ‥‥。
河野 まあ、それ以外は和枝さんと似たような感じ。
会社も自宅も、すべて流されました。
糸井 そういう状況ですと、「仕事」のことよりも、
真っ先に考えるのは「命」ですよね。

食べ物があるのか、寝る場所はあるのか、
生きていけるか、また津波が襲ってこないか。

再出発しようと思いはじめたのって、
何日くらい経ってからのことだったんですか?
和枝 私‥‥今日は、この「はたらきたい展。」で
お話させていただくということで
あのころのことを思い返していたんですけど‥‥。
糸井 ええ。
和枝 震災の翌日、工場のマネージャーが私に、
「はだらぎたい」って言ったんです。
糸井 え、その時点で?
和枝 食べるものも、着るものもなく、
「水さえ飲めれば一週間は生きっがら」って
みんなで言い合っていたとき。

従業員全員の安否確認に
丸4日くらいかかったんですけど、
「みんな、はだらぎたいって言ってる」って。
糸井 ‥‥びっくりしちゃった、今。
和枝 「また、はだらぎたいです」っていうのが、
最初に言われた言葉だったんです。
糸井 今だからこうやって会話もできているけど、
まだ瓦礫がすごくて、水だって‥‥。
和枝 ないです。
糸井 ですよね。
和枝 だから「食べる」とかと同じ、
何か、本能的なものだったのあかなあって。
「はだらぎたい」というのは。

何も何も特別なことではなくて、
食べる、飲む、寝ると、同じところにある。
糸井 あの状況の中で。
和枝 はい。
糸井 はー‥‥河野さんの場合は、どうでしたか?
河野 うちは、もう少しあとでしたかね。
糸井 どのくらい?
河野 一週間は経っていたと思います。

そのころというのは
われわれ、全国から届いた救援物資を
困ってるところに届けて歩くという仕事を
やっていましたので。
糸井 これまでやっていた仕事ではないけれど、
もう目の前に
今やるべき仕事がたくさんあった‥‥と。
河野 はい。

行政の方の4分の1が亡くなられたので、
われわれ民間の事業者でも動ける者は動こうと。

家族が亡くなった人たちはもちろん除いて、
あるいは消防団員の人たちには
最優先で遺体捜索をしてくださいと言って。

それ以外で動ける人は、
いっしょに救援物資を配りましょうと。
糸井 まだまだ混乱が続いている最中ですよね。
河野 南は気仙沼から北は釜石まで、
行政が網羅できないところを回りました。

一軒の家に50人から60人もの人が
避難していたってところもあったんです。

ただ、なまじ家が残っているから、
どこからも救援物資が届かないんですよ。
糸井 そうか。
河野 そのうちに、
和枝さんがご無事でいらっしゃるという話を
人づてに聞いて、
トラックに救援物資を積んで行きました。
和枝 そうでしたね。
河野 で、例の「バラック」の中から(笑)。
和枝 はい(笑)。
河野 いや「バラック」って言ったら失礼なんですけど、
唯一、斉吉さんに残された建物から
和枝さんが、顔も泥だらけの状態で出ていらした。
和枝 そうでした(笑)。
河野 で、すぐに、和枝さんの口から出てきた言葉が
「うち、ラッキーでした」だったんです。
糸井 今じゃ「名言」として語り草になってますが(笑)、
ドロドロの姿で現れて「ラッキーでした」と。
河野 こっちは心配して、必死で
「和枝さんっ、大丈夫ですかっ?」って
言ってるのに
「いやあ、うちは、ラッキーでした」と。

なぜなら
「うちには、これが残ってますから」って、
後ろの「バラック」を指差して。
糸井 のちに「トタン屋根の豪邸」と呼ばれた、あの。
河野 そうです。

で、すぐにまた
「八木澤さん、いつからタレつくります?」って
聞いてきたんですよ。
糸井 おお。
河野 「もう始める気か!」って思いました。

だって、こっちはまだまだ
ボランティアの気持ち満々だったので。
糸井 同じ「はたらく」でも、
向かっていった方向が違ってたんですね。
河野 でも「正しい考えだよな」と思いました。

人間、いちばん怖いのは、
与えられ続けると「自分たちで立つ力」を
知らないうちに失ってしまうこと。

和枝さんは、そのことにもう
気がついていらっしゃったんだなあ、と。
だから、
八木澤商店も早く立ち上がらないと、と。
糸井 うん、うん。
河野 ‥‥と思ってたらこの人(和枝さん)は、
続けて「いつ醤油くださいますか」と。
糸井 ‥‥ビックリしますよね。
河野 ええ、本当にビックリしました。

<つづきます>
2013-11-11-MON
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第1回 「はだらぎたい。」 2013-11-11-MON
第2回 よろこばれるほうが、楽しい。 2013-11-12-TUE
第3回 決め手は、人の繋がり。 2013-11-13-WED
第4回 はたらくことの、よろこび。 2013-11-14-THU

(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN