ロンドンのビジネスパートナーとの
仕事の話をいたしましょう。

彼らの日本進出のプロジェクト。
担当役員が2名決まって、日本に来ます。
彼らが展開しているいくつかのコンセプトの、
どれを日本に移植するのが相当か?
日本の市場にあわせて、
どのようにローカライズしていくか。
それらのコトを徹底的に討議するためにほぼ2週間。

まずは互いが当たり前と思って使っている言葉の意味を、
ひとつひとつ確認しながら
ギャップがあればそれを埋める作業をします。

居心地のよさ。
おいしい基準。
贅沢と感じるキッカケなどなど、
ステキなお店作りに必要な考え方の基準を共有するコト。
ここをはしょると、
こんなはずじゃなかったというお店ができちゃう。
だから妥協を許さず、時間をかける。
大抵のコトは分かりあえます。
「食べる」という
人が生きていくために必要なことにまつわる食文化。
表面的な部分はお国柄によって異なるモノがあるけれど、
その本質はほぼ同じ。
包装紙をとれば中身は同じであるコトが
ほとんどなのです。





ところが1点。
お客様をもてなすための方法論。
「どのような体制でサービスを提供するべきか」
という部分の溝が、どうにもこうにも埋まらない。

彼らはこういう。
用意周到な準備と、徹底的な役割分担こそが
すばらしいサービスをお客様に提供するために
必要なコト。
当然、マニュアルや作業基準。
自分のすべき業務に集中できる環境を
ととのえるコトが必須なのだと。
たしかに近代的で合理的なレストラン経営では
守らなくてはならない
基本的な考え方ではあるのだけれど、
そのことばかりにこだわっていては
日本の伝統的なおもてなし文化に対抗できない。
どうしようか‥‥、と困っていたら、
オブザーバーとして参加していた
ボクの師匠が提案します。

日本のおもてなしを経験していただくために、
今度の週末、料亭旅行をいたしませんか‥‥、と。

京都への小旅行という提案が、
断れる理由などまるでなく、
彼はその場で予約をします。
とても簡単。
明後日、ロンドンからのお客様をご案内するから、
よろしくお願いいたします‥‥、と。
その人たちが一体どういう人であるか。
何が好きで、何をたのしみに行くかという、
本来、レストランの予約において大切になる
さまざまな手がかり、ヒントはまるで何も告げられず、
電話は完了。
こんな予約で本当に日本的なるおもてなしを
彼らに感じてもらえるのかと、
いささか心配になりつつも、
「京都の料亭」にいけるという
ふってわいたシアワセに小躍りします。

当日、新幹線で待ち合わせした彼らもニコニコ。
料亭のコトを事前にいろいろ調べたのでしょう。
今日は脱ぎやすい靴を履いてきたんだ。
ソックスも新しいのをおろしたんですよ‥‥、
と、うれしそうに話する。
人の前で靴をぬぐ習慣のないイギリスの人。
まるでボクらが山登りをするがごときの用意周到で、
シワがはいってもいいような
コットン素材のズボンにジャケツ。
彼らなりに準備万端というところ。
梅雨が終わって本格的に夏がはじまる京都は
かなりの蒸し暑さ。
カジュアルで涼し気な彼らの装いに、
旅の気分も盛り上がります。






お店につきます。
ため息がこぼれでるほどにうつくしい日本家屋。
ボクたちのために大きくひらかれた入り口の、
その内側からひんやりとした心地良い風が流れでてくる。
「お待ちしておりました」。
おだかやか、けれど凛と通る女性の声が
奥から響いてきます。
和服をキチッと着こなした、
おそらく70は越えてらっしゃるでしょう。
お年を召して小さくて、
けれどシャンと背筋の伸びた女性に
ボクらは出迎えられる。

「お靴をお脱ぎになりますか?」

嬉しそうに靴をぬぐ二人。
見事に磨き上げられた廊下を歩いて通された、
畳敷の座敷にあぐらをかきやすいようにと置かれた
座椅子に一堂座って、ユックリ、食事がはじまります。
うつくしく整えられた床の間、障子、
そして窓の向こうの日本庭園。
ため息をつくまもなく、
キリッと冷やした日本酒がふるまわれ、
それに続いて色とりどりの小さな器に前菜が、
一口ずつほど入れられて食卓の上にズラリと並ぶ。
「お嫌いなモノがなければよろしいのですけれど‥‥」
と、そう言いながらひとつひとつの料理が
簡単に説明されて、ボクらの食事ははじまります。

ところで、もし私たちが靴を脱ぎたくない‥‥、
と言ったら、どうしたのですか? と、彼らが聞きます。
ボクらの部屋の担当の女性がニコリと笑って答えます。
「椅子のお席がございまして、
 そちらもこのお部屋と同じように
 準備させていただいておりました。」
予約のときにお伺いすることもできたのでしょうけど、
ご予約を頂いたときのお客様と、
今日のお客様の気持ちが同じとは限りませぬゆえ、
可能なかぎりお客様のご要望に添えるように
準備をさせていただいております‥‥、と。
私達はお客様のたのしみのヒントを
いくつか用意するだけ。
どのたのしみが選ばれるかは、
すべてお客様の気持ち次第と心がけておりまして‥‥、
と。

申し遅れましたが、ここのお店の女将でございます‥‥、
と頭を深々下げて礼する。
まさにこここそファーストクラス。
彼らも感じ入ったのでしょう。
私はクラーク、私はヒルマンと
それぞれの名を彼女に告げて、
よろしくお願いいたします‥‥、と握手をもとめる。
ワタクシはトミ子と申しますが、
殿方から名前で呼ばれると胸がドキドキして、
器を持つ手が震えます。
ですからここでは、
「女将」と呼んでいただきますよう‥‥、と、
そういう彼女の頬がちょっと赤らむようで愛らしい。

次のお料理は夏豆のすりながしでございますが‥‥、
と次に続く料理の説明をして、異存がなければそれがくる。
ハモの季節で、けれど鰻のような‥‥、と
ハモの説明をしたら苦手という人にだけ、
ハモの代わりに鶏のササミの湯引きがきたりと、
料理までもが臨機応変。
西洋料理は「何を作るかメニューを揃える」のが
おもてなしの基本の基本。
日本料理は「季節季節の食材を揃えて、
お客様の好みにあわせメニューを誂える」
のが基本なのだ‥‥、と師匠は言います。
彼らはわかったような、わからぬような表情で、
たしかにこれほど高級な店でなければ
こうした対応もできぬであろう、とボクも思うほど、
その対応は洗練されていて素早く、的確。





1時間ちょっとをたのしんだ頃でありましたか。
そろそろ、今日の食事の見せ場の料理が来る頃か‥‥、
とタイミングで女将がいいます。
お庭にちょっとした趣向をご用意いたしました、と。
座敷の外の縁側に、下駄が並んで待っている。
まさか、靴だけでなく靴下までも脱ぐことになるとは、
予想外だなぁ‥‥、と、そう言いながらも
「まるで廊下が足の裏にくっついてるようだネ」
と、木の感触に彼らははしゃぐ。

庭の一角。
店のかたわらを流れる川から引き込んだ、
支流をせきとめ作った池に、梁(やな)をたて、
みるとそこに鮎が元気に泳いでる。
今日はこれを炭で焼いて
お召し上がりいただこうと思いまして。
見れば木陰にテーブルが設えられて、横に炭場。
そして白衣の板前さんがたっていた。
もしよろしければ、釣ってごらんになりますか?
疑似餌の付いた竿を渡され、
ボクらはひととき少年になる。
キレイな水の中でお腹をすかせていたのでしょう‥‥、
糸をたれるとグッと引く。
釣り上げそれに串をさし、塩をうち焼く。
水の中を泳ぐような姿で焼けた鮎に、
そのままパクリとかぶりつき丸ごと食べる。
なんとたのしい。
なんとおいしい。
しかも彼らにとってなによりうれしかったのが、
足を伸ばせて椅子に座れたという
コトだったのでしょう‥‥。
しきりに女将に、「ありがとう」と感謝する。

鮎と一緒に和牛を焼いて、
目の前でにぎってもらったおむすびを頬張り、
それからスイカ。
早生のスイカを庭の片隅の井戸で冷やしたのを、
スパッと切って濡れ縁に座ってしゃぶりつく。
一足先にやってきた、日本の夏。
京都という街のこの店が、
まるで日本の夏のすべてを象徴しているような、
そんなステキにみんな気持ちがあたたかくなる。
最後に再び最初の座敷に通されて、
見目麗しい茶菓子と抹茶をいただいて、
夢のような食事が終わる。

あらかじめ楽譜に
びっしり音符が細かくかき込まれている、
交響曲のような西洋におけるおもてなし。
一方、おおかたのコード進行がきめられているけど、
即興的な要素を多分に残した
ジャズのような日本のおもてなし。
どちらが良くて、どちらが悪いかではなくて、
これはあくまで文化の違い。
互いの良さを理解しあって、
落としどころを見つければいい‥‥、
とお茶を飲みつつ話をします。

感動に満ち溢れた見事な体験。
けれどその中で、彼らが一番感動したところ‥‥、
それは意外なコトでした。
来週、お話いたします。




2011-08-18-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN