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社長に学べ!<おとなの勉強は、終わらない。>


第5回 世の中が変わるという予感。



わたしが
大学一年のときだから一九七八年ですが、
池袋の西武百貨店に、
たぶん日本ではじめて
パソコン常設コーナーができるんです。
わたしはそこに毎週末に行っていました。

そのころのコンピュータ売り場には、
コンピュータの前に座って、
一日中プログラムを書く人が
いっぱいいたんです……だって、
ふつうの子には買えないですもん。

わたしは大学の入学祝いかなんかに加えて、
さらにローンを組んだりして、
いちおうコンピュータを買ってはいたんです。

コモドールという会社の
「PET」という機械。

その機械の売り場が
池袋西武百貨店にありまして、
わたしはそこに
自分の作ったものを持っていくんです。

わたしの高校生のころの相方とは
大学で別れてしまいましたから、
相方がいない状態でした。

たぶん、わたしは
「人に見せたかった」んですよね。

池袋の西武百貨店に行ったら、
見せる相手がいるんです。
同好の士がいるんですから。

後に、私にもっとも
刺激を与えることになるプログラムの名人が、
そこで偶然、プログラムをしていたんですよ。
(笑)ああ、みんな、そこに集まったんだ。
彼がそこでプログラムを書いていて
なかなか動かなくて首をひねっていたんです。

わたしはそれをうしろから見て
「あそこがまちがっている」
とわかったんですね。

「それは、ここを直したら直るんじゃないの?」
「ああ、たしかに」

彼が大学二年で
わたしが大学一年だったのですが、
それから友人になるんです。

その売り場の店員だった人が
会社を作ってHAL研ができるんですが、
そのときわたしたちは
アルバイトとして誘われました。
なんかもう、
アメリカの物語みたいですねぇ。

西武百貨店の売り場の店員さんが、
HAL研究所の元社長なんですか?
その人は会社設立のきっかけは
作るんですけど、社長ではないんです。
最初のころは経営の一角にいたんですけど。

その売り場で
おなじコンピュータを使いあう
ユーザーグループみたいな集まりが、
いつも行っている売り場の店員さんに、
「会社作るんだけどバイトしにこない?」
といわれて、そのHAL研という会社で
プログラムをやっていたらおもしろくて、
わたしはそこにいついてしまった……
というわけです。
もうすでに、会社は山梨にあったんですか。
いえいえ、最初は秋葉原です。
山梨に行ったのは九〇年です。
ずいぶんあとなんだ。じゃあ最初は
秋葉原の一室みたいなもんなんですか?
はい、秋葉原のマンションの一室です。
おもしろいねぇ。
いや、ほんとに、へんな人生だと思います。
岩田さんは、
大学にはちゃんと行けていましたか?
大学は四年でちゃんと卒業しました。

ただ大学生のときは
優等生ではなかったと思います。
なぜならバイトのほうが
ずっとおもしろかったから。

コンピュータの基礎を
学校で教えてもらったっていう意味では
役にたっていますし、
大学に行ってよかったと思いますけれど、
実際に仕事で役にたつことのほとんどは
自分でやっておぼえたものです。
卒業するのは、
左手でできちゃったんですか?
左手ってことはないですが、
日本の大学は、卒業するだけなら
そんなにむずかしくないとわたしは思います。
ただ、バイトは必死になってやっていました。
おもしろくてしょうがないんですもん。
そんなわけで、
HAL研究所には、
バイトの子として入ったわけですけど。
はい。
バイトの子だった私が、
いきなり会社にポンと入りますよね。

開発社員には先輩がいないから、
入りたてのわたしが開発のことは
ぜんぶ自分で判断しないといけない……
誰も相談に乗ってくれる人はいないんです。

ここにまた運命があってですね、
大学卒業一年後にファミコンが出るんですよ。
おおきいんだ、やっぱり!
はい。
ファミコンのことを、
当時、どう思いましたか?
わたしはバイトのときから
パソコンで動くゲームを
作って売っていましたが、
ゲームを作るうえではファミコンは
明らかに「従来と異質のよさ」がありました。

当時の何十万円もするパソコンよりも
一万五千円のファミコンのほうが
ゲームをやるうえで圧倒的にいい。

わたしは
「こんなものが一万五千円か。
 これは世の中が変わるような気がする。
 どうしてもこれに関わりたい」

と思ったんです。

ですから、たまたま当時
HAL研究所に出資していた会社のなかの
一社が任天堂と取引がありまして、
その人に任天堂を紹介してもらいました。

「どうしても
 あのファミコンの仕事をしたいから、
 紹介してもらいたい」

と京都の任天堂に行くんです。
当時二十四歳の若造が突然あらわれてね……。
(笑)きっと、池袋西武に
行っていた雰囲気のままですよね?
ええ。
スーツは着てるけど七五三、
みたいな感じの若造が
「仕事をやらせてください」と……
行くほうも行くほうだけど、
仕事をくれるほうもくれるほうだなぁと、
いまから考えると思うんですけど(笑)。
え! くれたんですか?
ええ、仕事をくれたんです。
「これ、やってみませんか?」
そのプログラムをすることが、
任天堂とのつきあいのはじまりでした。
おもしろいなぁ。
どんなプログラムでしたか?
ゲームソフトです。
初期のピンボールやゴルフは
わたしが作りました。

まぁわたしひとりじゃなくて、
HAL研究所の人と一緒にね。
とにかく作るのがおもしろいし、
自分の作ったものが
世界中にすごく売れていくわけです。

受託でやったので、
ちっとももうからなかったんですけど
「みんなが知っている」
というのはうれしいですよね。

相方しか知らなかったものが、
世界中に広がるわけですから、
おもしろくてしょうがないんですよ。
(笑)歌好きが、おおきいマイクを
持っちゃったみたいなもんだね。
ファミコンがおおきく成長する過程に、
運よく関われるきっかけを得るんですね。
メインの仕事は、
まだ任天堂とかではなかったんですか。
当時、HAL研というのは、
ゲームも作るしパソコンのハードも出すし、
あれもしますこれもします、
みたいな会社だったんですね。
(笑)秋葉原な感じ?
はい、秋葉原な会社でした。

要するに
「自分たちがおもしろそうと思うものを
 作って売っちゃいました」みたいな会社です。
なんでもありなんですよ。
だからいろんなことを
やりたいという人があらわれては
「ちょっとやってみよう」ということになりまして。
会社はどんどん
おおきくなっていっちゃうわけですね?
そんなに急成長ではないですけど、
それでもコンピュータのまわりの仕事が
おおきくなるんですが、たった五人の会社が、
十年で、九十人ぐらいにはなっていたのかな?
やっぱり成長産業という感じがしますよね。


第5回おしまい。明日に、つづきます
2005-03-07-MON