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社長に学べ!<おとなの勉強は、終わらない。>


第6回 常に自分に課していたこと。



HAL研究所では、バイトから、
開発担当、開発部長、と進んでいくんですか?
ええ。
開発の責任者みたいになって、
なんとなく名刺には課長と書いてあって、
それが開発部長になったみたいなところです。
最初はそういう
「岩田くん」という若者だったんですね。

そんなうちに、
「岩田っていうものがおるんや」と、
任天堂の上層部の知るところにまで
入っていくわけですか。
たとえば昔、
ブラインドタッチでタイピングをする人って、
少なかったんです。

それでわたしが任天堂に
プログラムのしあげでくるじゃないですか。
機械をガーッとたたいていると
「ものすごいスピードでタイプする」
ということが、
まるで見せもののようになるんです。

いろんな人がいれかわりたちかわり
部屋にやってきては
「ほんとだ、はやい」といって帰っていくんです。
そういう時代でした(笑)。
手品のもとみたいに見えていたんでしょうね。
つまり一芸に秀でた人という。
いくつかのソフトを
つづけて作ったのですが、それは
「企画はあったけど
 誰も作れなくて困っていた」
みたいなゲームでした。
そこである程度の評判を得ることができたので、
技術的に評価をしてもらえるように
なったんでしょうね。
そのへんはもう、
完全に技術者としての道を、
歩むことになるんですね。
そうです。はい。
それはまだ監督とかではなくて、
選手として、試合をすることが
おもしろくてしょうがない時代でしょうね。
ほんとにそうです。
岩田さんに会ったことがないというときに
噂できいていた印象では
「ゲームを作るためのコンピュータ」
みたいなものを作っている人なのかなぁ、
と思っていました。

技術者としてどんどん進化していくと、
もうひとつ、上位概念のところにいくんですか。
ものを作っていると、毎日の苦労は
「人が苦労するしかない」ということと、
「毎日汗水たらしているけど、
 この苦労をしつづけることは
 正解なんだろうか。
 こんなことは機械がやればいいのに」
ということのふたつにわかれるんですね。

ですから、機械がやればいいことを
自動化する仕組みを作ろうと
はやい時期から思うわけです。


もともとわたしは
単純作業にはすぐに飽きるんです。
ラクをしたいし、
おもしろいことだけをしたいんです。
だから単純なことで
毎日何回もおなじ苦労をするのが、
イヤでしょうがなくて……。
岩田さんは、
それを他人にさせることさえ、
イヤなんですよね?
他人にさせるのもすごいイヤです。
こうすればみんながラクになる、
というようなことを考えて実践しますと、
最初はあたらしいことを
おぼえなきゃいけないから
みんな抵抗するわけだけど、
そのうちそれがわかると、
「いやぁ、よかったですよ、あれ」
とかいうことになるわけです。

それはまさに相方が
自分のアウトプットをほめてくれるのと
まったくおなじで、
おもしろくてしょうがなくなるんですね。

『MOTHER2』で
糸井さんと出会うころのわたしにとっては、
ゲーム開発において、機械がやればいいことは
自動化するということがいちばんの課題でした。
「ゲーム開発の効率を大きく向上させるんだ」
ということを、ちょうどやっていたときでした。
そのことが岩田さんのマネジメントの
「方式としての原点」なんじゃないかなと、
ぼくは漠然と考えているんです。

つまり、はやい話が、
お母さんが家事に苦労しているのを見て
洗濯機を考えたとか炊飯器を考えたとかいうのと
おんなじレベルのものですよね。
それはすごい似ています。

毎日自分の身のまわりで
起こっている仕事のなかには、
どう考えてもこれは絶対に
人のするべきことではないと思えることが
いっぱい見つかるんですね。

見つかったら
その仕事を使いやすいようなかたちにはがして、
自動化する仕組みを作りあげて、
「このボタンを押せばこうなるよ」
というようなことにするわけですね。
もしかしたら
「HAL研究所で開発部というのは
 わたしひとりだったんです」
というときには、
すでにそういうことが念頭にあったんですか?
そういう意識は持っていたんですが、
「人間は人間にしかできないことをしよう」
と明確なメッセージとして打ちだしたのは、
やっぱり自分が社長になったあとなんです。


会社が経営危機になって、
わたしが社長になって
会社を立てなおしますというときも、
開発部門の中でいちばん総合力の高い人、
という程度の信頼はありますから、
べつにみんながいうことを
きいてくれていないわけではないんです。

ただその一方で、
基本的に会社には信用がないんです。
社員から見たら
不信のかたまりじゃないですか。

「会社の指示に従って
 仕事をしていた結果がこれか?」
と思ってあたりまえですから。

ですからそのときに一か月ぐらい、
ひたすら、人と話していたんです。
それが面談人生のはじまりですけど。
のちのち何度か話に出てくる面談は、
そのときにはじまったんですか?
そのときに、いっぱい発見がありました。

自分は相手の立場に立って
ものを考えているつもりでいたのに、
直接ひとりひとりと話してみると
こんなにいろいろな発見があるのか、

と思いました。

当時はなにが強みで
なにが弱みなのかをわかろうと思って
やったことだったんですね。
それがわからないと、
自分は社長としてものを決められないですから。

最終決定者として、
ものを判断するものさしを作りたくて
やりはじめたことなんでした。

プログラムの判断基準は、
短いとかきれいとかはやいという
ものさしなんですよね。

だけど世の中でいわれている
マネジメントはそんなに単純ではないし、
短期的なもうけを追求することが
かならずしもただしいとはかぎりませんから、
「それじゃ、どうすればいいのか」
ということを、
会社がある種の極限状態に陥った瞬間から
考えはじめるわけです。
社長業からは逃げられないということは
もう前提で、逃げないと決めたんですか?
「逃げない」と決めてから
材料集めに入るわけですが、
たぶんその面談のときにわたしは
「判断は、情報を集めて分析して
 優先度をつけることだ」
ということがわかったんです。

「そこで出た優先度に従って
 ものごとを決めて進めていけばいい」
と思うようになりました。


そうしたらものごとが
だんだんうまくまわりだしますから、
それはきっといろんなことに
適用できる真実なんだろうというふうに、
自信につながっていくんですね。
それ、三十二歳でだよね?

ふりかえってみたら、
すごいことをしてますね……。
いまのわたしには、
あの当時よりも
いろんなことが見えているので、
三十二歳の自分のチャレンジが
いかに困難だったかを、
いまのほうが、もっとよくわかるんですよ。
たいへんだったでしょうねぇ。
「いまだからわかること」
のひとつには、たとえば
「遠まきにしている味方の存在がおおきい」
ということもあったんでしょうね。
若いときには、遠まきにしているものや
帳簿につかない応援が、
あんまり見えないものですから。
はい。

ただ、わたしはそれのもっと前から、
「自分が誰かと仕事をしたら
 『次もあいつと仕事がしたい』
 といわせよう」
というのがモットーだったんです。

それは自分のなかに常に課していたことの
つもりでいたんです。


だって、もうあいつとはごめんだ、
とは、いわれたくないですからね。


第6回おしまい。明日に、つづきます
2005-03-08-TUE