2014/08/21 12:14
図工の授業でショックを受けたヒロセ。
しかし、その後は得意の
絵の才能をいかんなく発揮。
描く絵は当然のように
コンテストなどに出展されて入賞。
ひとりで徹夜して雑誌をつくって
クラスの友だちから人気を博したり。
「絵描きになりたいなあ」と
ふつうに思っていたそうです。
中2のときに描いた風景画は、
「どういういきさつか忘れたけど」
フランスに展示されたこともあるそうです。
あと、中3のときには
「町内の靴屋さんに
『看板描いてくれ』って言われて
ペンキで描いたよ。
2メートル×3メートルくらいの看板。
それが、絵でお金をもらった最初かなあ」
高校では美術部。
絵の予備校に通いながら、
「油絵よりデザインの人たちのほうが
たのしそうだったから」という理由で
グラフィックデザインの道へ。
そのころ敬愛していた湯村輝彦さんが
多摩美術大学のグラフィックデザイン科
だったこともあって、多摩美の門を叩きます。
「そういや、19歳のとき、俺、
レコードのジャケット描いたよ」
この取材ではじめて聞いた話。
みつかるかなあ、と言いつつ検索してみたら
ありました!
桐ヶ谷仁さんという方の
1983年のアルバム。
この絵を描いたのが19歳のヒロセです。
2014/08/21 11:58 幼少時のエピソード、その2。
ヒロセが小学校1年生のとき。
ヒロセは幼稚園に行ってませんでした。
「だから、ふつうの子が習うような
絵の描き方を知らなかったんだよね」
と彼は言います。
小学校1年生の図工の授業で先生が言いました。
「太陽の絵を描ける人!」
ヒロセは自信満々で手を上げました。
そして、前に出て、黒板に太陽を描きます。
「白いチョークを横につかってね、
こう、もやもやもやっと、
あかるい太陽の光が
空に広がってるところを描いたの。
そしたらね、みんながクスクス笑うんだよ。
『ちがうよね?』『ちがうよ』って。
で、描き終わったら、全員が
『ちがいまーす!』って。
ショックだったなあ。
で、正しく描けるっていう子が出てきて
なんと! 赤い丸を描くんだよ!
そこから、こう、放射状に線が出てて。
俺、じぶんがおかしいんだと思った。
だって、俺、太陽は赤には見えなかった。
百歩ゆずって夕陽だって、赤ではないよ」
絵の神童、ヒロセが味わったはじめての挫折。
いまなら、それでいいんだと思えますけどね。
2014/08/21 11:54 幼少時のエピソード。
ヒロセが4歳くらいのとき。
ある日、こたつで、
大好きな叔父さん(デザイナー)に、
姉が手紙を書いていたそうです。
なんとなくそれを見ていたヒロセ、
ヒマだったので、そのとき机の上にあった
「千円札」の絵を、模写したそうです。
伊藤博文の肖像画だけでなく、お札ぜんたいを。
で、それを姉の書いた手紙に同封して
叔父さんに送ったそうです。
受け取った叔父さんはその千円の絵を見て、
「うまいなあ!」と驚いたのですが、
あまりにうまかったので
これは、千円札の上に紙を重ねて
なぞって描いたんだろうと思ったそうです。
ところが、絵に、千円札を重ねてみると、
そもそもサイズが違ってる!
じゃあこれは4歳の甥っ子が見て描いたのか!
叔父さんは驚いて、家に電話してきたそうです。
2014/08/21 11:48 ヒロセのプロフィール。
弊社のヒロセは、
もともと絵やデザイン、
作品づくりを専門にしていた人です。
ええと、学歴的には
多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。
「いやあ、俺、子どものころから
絵がうまかったからさ!」と
くったくなくしゃべる彼のエピソードが
ぼくはとても好きなんですが、
幼少時の話をふたつ、紹介しましょう。
2014/08/21 11:44 絵の先生は、この方。
本日、「絵」について
いろいろ教えてくれるのはこの人、
ほぼ日のデザイナー、ヒロセです。
うちの会社は、おもしろ絵もふくめて
ササッと絵を描ける人が多いんですが、
技術的には、圧倒的に、段違いで、
ヒロセがうまいのです。
というか、美術の人でもあったし。
そのあたりまずは
ちょっと紹介しましょうかね。