野村 糸井さんは今年64歳だということですが、
大概の人は年齢を重ねると
自分の好きなものが偏っていったり
興味の範囲が狭くなったりと、
可動範囲が狭くなるようなところが
あると思うんですが、
糸井さんはなぜか、若いころと同じような
瑞々しさを保ってらっしゃるように思えます。
それはどうしてできるんですか?
糸井 年をとって、固まっちゃってる人を見て、
かっこいいと思わなかったからでしょうね。
野村 ああ、たしかにかっこよくないですよね。
糸井 「このかっこ悪さはやだな」って思ったら、
自分はそうなりたくないですから。
逆に、ぼくより年上の人で、
相変わらずゆらゆらしてる
かっこいい人はいっぱいいますよね。
たとえば谷川俊太郎さんって、
たしかいま80歳ですけど、会って話すと、
いまだに誰かと恋に落ちたりしそうですよ。
それをぼくは年下の人間として、
ちょっとからかいながらも、うらやましいんですよ。
野村 (笑)
糸井 きっとね、谷川さんはそのへんのことについて
ものすごく考えてるはずです。
考えてるし、危なっかしさも抱えてるし、
「うまくいったらいいだろうな」って
子供みたいなことも考えてる。
ぼくのなかにもその要素はあって、
「これは一人で考えること」、
「これは誰かと考えること」っていうふうに、
それぞれ秘密の小箱があるんですよ。
ぼくの想像ですけど、谷川さんは
けっこうでかい箱で恋愛について考えてますよ。
詩人というのはそれを仕事にもできる立場だし。
で、そういう人を見ると、
ぼくは「ああ、いいな」って思うんですよ。
ぼくとはどこが違うんだろうな、とか。
あるいは、横尾忠則さんが、ある瞬間に
少年どころか、幼児のようになれるっていうことを
ものすごくかっこいいなと思ったり。
亡くなった吉本(隆明)さんなんかを見てると、
年取ったがゆえに自由になった、
っていうようなところも見てきたし。
だから、かっこいい先輩みたいな人たちがいて、
一方でかっこ悪い先輩方もいっぱいいて。
ぼくはやっぱりかっこいい側に
行きたいんでしょうね。
なるだけそっちへ近づけるようにと思ってるから
こうなってるだけだと思いますよ。
ほっといたら普通の頑固な
じじいになってると思いますよ。
その意味では、いちおう朝晩走ってる、
みたいなことをやってるんですよ。
野村 いまの状態にするのも、努力であると。
糸井 そうだと思いますよ。
野球やってた人が、何歳になっても
速い球を投げたいというのと同じように、
やっぱりことばに関わったり、
おもしろいことを考えてる人間としては、
ずっとそういうものでありたいですよね。
走れる限りは走りたいから。
その意味ではトレーニングしてるというよりは
「おっとっと! 危ない!」
みたいに感じることはしょっちゅう。
「ああ、年取ると
 こういうふうにダメになるんだな」とか。
逆に「こういうふうに良くなるんだな」
っていう発見もあります。
野村 ああ、そうですか。
糸井 うん。年齢が上がってから
自由になることも、けっこうある。
たとえば若いころって、
「恥ずかしくて言えない」みたいなことが
自分を不自由にしますよね。見栄を張ったりとか。
年をとると、見栄を張らなくても平気になるぶん、
すごく自由になりますよね。
ただ、ほっとくと、やっぱり間口が狭くなって、
食べるものもどんどん薄味になっていきますから、
なるだけ、その、上品な薄いものばかりを食べて
「趣味がいいね」っていうだけにならないように
注意はしてますけどね。「おっとっと!」って。
野村 (笑)
糸井 だから、若い子たちが
「あれがおいしい」って言ってるのを
「どのへんでおいしいんだろう?」って、
ちゃんと興味を持ってみたりね。
その意味でいうと、ぼく、
人が心からいいなと思ってるものは、
まず、うらやましがったり、
憧れたりするんですよ。
アイドルにも憧れるし、名人や職人にも憧れるし、
道歩いてるなんでもない人なんかにも憧れるし。
最近は、ビールの「すばらしい浅さ」にも
ちょっと憧れていて。
野村 なんですか、それ(笑)。
糸井 ワインを語る人って、ワインを語る言葉を
どんどん磨いていくじゃないですか。
野村 薀蓄といいますか‥‥。
糸井 そうそう。
で、ワインの価値をどうわかるか、
っていうことで体系がつくられていきますよね。
ウイスキーとかも、シングルモルトがどうだとか
ブレンドがどうだとか。
そういうふうに飲み物って、
いろいろ体系が作られていくんだけど、
ビールを語る人たちとビールの好きな人たちは、
まぁ、語る体系は、もちろんあるんだけど、
その体系をわやにしちゃうくらい
「カーーー!」って言って
おしまいにしちゃうじゃないですか。
野村 この一口のために生きてる、っていう(笑)。
糸井 そうでしょう?
ビールって、語ってないんですよ、みんな。
「うめー」とか「カー!」とか言ってるだけで。
ビールと一緒に食べる料理について
さっきまでものすごく語っていたやつが
冷えたビールを飲むときになると
「カーーー!」って言うだけなんですよ。
この、あらゆるものをすばらしく浅くしちゃう
ビールのマジックって何? って思うんです。
語ることばをぜんぶ洗い流しちゃう
快感のスコールみたいなものが来るわけですよね。
だからもう、座った瞬間に
「とりあえずビール!」って言うわけでしょう。
それは、けっこうすごいことだなと思って。
ぜんぶの理屈をぶっ飛ばしちゃうわけですから、
あの「カーーー!」で。
それはもう、宗教に近いかもしれない。
野村 なんともスケールの大きい話に。
糸井 やっぱり、浅いからって軽蔑してる限り、
いちばん語れるものが高級で、
語れないものは低級だっていうところに
行っちゃうんですよ。
でも、ほんとはそうじゃないでしょう?
野村 バブルの時代って、高級品やブランドや
いろんなものがあふれていて、
それこそ「語れるもの」「見てわかるもの」に
価値が置かれていた時代でしたよね。
糸井さんがおっしゃる「語れるもの」を
超えたところに価値があるっていうのは、
そこから新しい時代に入ってきている
ということなんでしょうか。
糸井 そうだと思います。
というか、本来は、そっちの面積のほうが
ずっと大きかったと思うんですよ。
人間のもともとの感性としてはね。
はっきりことばにならない
未分化な心の部分っていうのが
実はものすごい広さであって、
それこそが人間の素敵な部分ですよね。
源氏物語の中に理屈は書いてない、
みたいなことですよ。
どうしてそうなるかっていうとね‥‥
なんて書いてないけど、通っちゃうんだよね。
というところが、知的と称する人たちが
幅をきかせすぎてしまうと、ぜんぶ、
「そこは荒れ果てた土地です」みたいに
決めつけられてしまう。
ところが人のほとんどは、ことばを超えたところで
とっくにわかり合ってるわけです。
赤んぼのかわいさもそうだし、
動物のなんともいえない愛くるしさもそうだし、
そこでのコミュニケーションは
ワインを語るようには語れないですけど、
それで十分じゃないですか。
それとビールの「カーーー!」はね‥‥。
野村 通じるものがあると。
糸井 そこのところをちゃんととらえてないと、
大声でたくさんしゃべる人が
「それじゃぜんぜんわからない」って
言っておしまいになっちゃうんで。
だから、「わからない」って
言われた側の価値みたいなものが、
ことばによってもう一回、再発見できないかな
っていう仕事をぼくはしているような気がする。
そういう意味でいうと、
この『ボールのようなことば。』を若い人が読んで、
「うまく言えなかったことがここに書いてある」
って言ってくれたらものすごくうれしいですね。


(つづきます)

2012-10-18-THU