矢野顕子さんと大貫妙子さんは、
ソロデビュー前から45年以上のつきあいがあり、
互いの音楽をずっと讃えあってきたことは
よく知られています。
矢野さんから大貫さんの、大貫さんから矢野さんの、
話をうかがうことはあっても、
じっさいにふたりが話しているところを
あまり目にしたことはありませんでした。
矢野顕子さんの新アルバム『音楽はおくりもの』には、
「きょうは 大貫妙子の曲を聴こう」
という歌詞が登場します。
その意味が探りたくなったことをきっかけに、おふたりに
ほぼ日の學校の校舎で、音楽についてお話しいただきました。
糸井重里が傍聴者として観客席にいます。
この長いあいだ、いったいどんなことがあったのか。
そしてふたりは、音楽を職業にしてよかったのか。

写真:仁科勝介

※動画バージョンは後日「ほぼ日の學校」で公開予定です。

>大貫妙子さんのプロフィール

大貫妙子(おおぬき たえこ)

音楽家。東京生まれ。
1973年、山下達郎さんたちと
シュガー・ベイブを結成。1975年にソロデビュー。
以来、現在まで27枚の
オリジナルアルバムをリリース。
『Shall we ダンス?』や『マザーウォーター』の
メインテーマを担当するなど、
映画音楽も数多く手掛ける。
日本のポップミュージックにおける
女性シンガーソングライターの草分けのひとり。
オフィシャルサイト https://onukitaeko.jp/

>矢野顕子さんのプロフィール

矢野顕子(やの あきこ)

音楽家。青森生まれ。
1976年「JAPANESE GIRL」でソロデビュー。
以来、YMOとの共演など活動は多岐に渡る。
糸井重里との共作楽曲も多い。
宇宙飛行士の野口聡一氏との対談による書籍
『宇宙に行くことは地球を知ること』
光文社新書から発売中。
最新アルバムは2021年8月に発売された
『音楽はおくりもの』
オフィシャルサイト https://www.akikoyano.com/

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第4回 奇跡と呼ばずしてなんであろう。

ほぼ日
矢野さんの新しいアルバムは
『音楽はおくりもの』というタイトルですが、
おふたりがこれまで、
音楽活動で印象深かったことはありますか?
大貫
私は海外でレコーディングすることも、
けっこう多いんですが。
「行ってから探す」ということもあるんです。
ほぼ日
日本からアポイントを入れずに。
大貫
そう。
フランスの音楽って、日本にいると、
意外と情報がないんですよね。
でも、きっと見つかると決めて、パリに部屋を借りて。
毎日レコード店通い(笑)。
アーティストとアレンジャーのところを見て、
買っては、聴き。
見つかったら頼もうと、曲はすでに作ってあって、
持参していたので。
東京からの情報もあって、
ピエール・アデノという人が見つかったんです。
彼は映画音楽を主としているけれど、
ジェーン・バーキン『追憶のランデヴー』でも
アレンジしています。
持参した曲を気に入ってくれて、
私の『アンサンブル』というアルバムで
ほんとにすばらしいアレンジをしてくださいました。
それ以前に、
日本でスペインの歌手のコンサートを
聴きに行ったことがあって、
バックで演奏していたギターの
パコ・コルテス、ミゲル・コルテス兄弟
に魅了されました。
フランス録音をするなら、
その後、そのままスペイン録音もしよう
ということになって。
コーディネーターの方にお願いして
彼らに連絡してもらい、OKをとりつけたんです。
はじめて彼らと会ったのは、
マドリードのホテルのロビーで、
私は、はじめましての挨拶がてら、
手を差し伸べてみたんですけど、
彼ら、固まっちゃってた。
「何この人」みたいな感じだったんですよ。
矢野
はははは。
大貫
多分、シャイなんですよね。
それはしょうがないなと思って。
次の日にレコーディングに入ったんですが、
スタジオで、そのときはじめて、
彼らは譜面を読めないということが
わかったんです。
ほぼ日
そうなんですか。
大貫
彼らは、代々、例えば親からとか‥‥
耳で覚えて継承される
奏法だったりするものが多いので。
コードはなんとなくわかるようだったけれど、
音符は読めなかったので、
私がピアノで、単音で
「この音!、次はこの音!」って。
でも、何度も間違えて先に進まず、
それで半日費やすことになったんです。
もう、そのときは
絶望のふちまで来て「どうしよう」と思って、
夜も眠れなかったです。
彼らのせいでは、まったくないんですけどね。
次の日にパコ・デ・ルシアのツアーを回ってる、
スペイン人のべーシストが、
ダビングでスタジオに来てくれて、
通訳に入って助けてくれました。
『アンサンブル』というアルバムの
「太陽の人」と「花を待ちながら」は
そうやって苦労して録れたオケです。
あんなにつらかったレコーディングは過去になかったけれど
演奏自体はすばらしかったし、
学ぶことがたっくさんあった。
矢野
ほんとう。そうだったんだ。
大貫
世界は広い、さらに勉強が必要だと
しみじみ感じました。
矢野
うん。
大貫
私たちは当たり前のように
譜面をスタジオで渡すじゃない。
そこから、一緒に作りあげていくでしょ。
でも、いいんですよ、読めなくても。
彼らがすばらしいギタリストだったからこそ、
それがわからずにいた。
矢野
その人たちとやったのは、それっきり?
大貫
そう。
私にとっては、そういう経験をすると、
どうするべきかがわかったので。
でも、彼らにとっては
「もういいです」という感じかも(笑)。
矢野
ふふふふ、まぁ、そうか。
大貫
でも、何年経って聴いても、やっぱり
彼らと一緒にレコーディンングできて
よかった、という思いしかないです。

ほぼ日
矢野さんはいかがでしょうか。
音楽の思い出やエピソードは‥‥。
矢野
もう、エピソードだらけですけれどもね。
ほぼ日
そうですよね。
矢野
デビューアルバムの『JAPANESE GIRL』は、
ロサンジェルスに行ってレコーディングしました。
そこで全く面識のなかった
リトル・フィートのみなさんといっしょに
演奏することになりました。
コード譜をパパパッと書いてって、スタジオ入って、
「はい、はい(譜面を配る)、やりましょ」
みたいにはじめたんだけど、やっぱり
彼らも譜面が読めなかったんです。
だからまずは何回も演奏をくり返しました。
で、そのうちにもう、体に入ってくるでしょう。
大貫
リトル・フィートも譜面が読めなかったの? 
コードはわかるのよね?
矢野
コードはわかるのよ。ただし、
彼らの生き方のなかで、
楽譜というものをあまり扱ってこなかったの。
つまり、バンドとして。
大貫
なるほど。
矢野
変拍子の曲もあったから、
ベースの人がたいへんに苦戦していたのを
覚えています。
でも、いったん演奏が体に入り、
できるようになってからのグルーヴは
すごく印象的でした。
たったひとつ、音楽というもので
私たちはつながっていくんです。
言葉も‥‥つまり英語もしゃべれないし、
だって相手は20歳の小娘ですよ。
一同
(笑)
矢野
そんなアルバムができて、
いまだにそれがすごくいいものとして、
たくさんの人に聴いてもらえてるということは、
これはもう
「奇跡と呼ばずしてなんであろう」だよね。
大貫
あのアルバムをはじめて聴いたとき、
「あの、リトル・フィートとやったの?
え、すごい!」
こんなことできちゃうわけ?」
みたいに思ってました。
当時、海外レコーディングって、
しようと思えばできる時代だった。
日本も高度成長期で、
制作費もうんと削られるということはなかったし。
作る側からしたら、
しあわせな時代だったと思う。
矢野
ター坊の『SUNSHOWER』
私の『JAPANESE GIRL』
出たのはどっちが先だった?

大貫
アッコちゃんのが1976年、
私のが1977年、ですね。
当時、アッコちゃんの『JAPANESE GIRL』を聴いて、
「まるで洋楽みたい」と思った。
でも、あのアルバムのプレーヤーじたいが
私たちにとっての洋楽だったわけですから、
当たり前ですよね。
そういうことにすぐチャレンジしちゃう、
それがアッコちゃんなのよね。
ローラ・ニーロもキャロル・キングも
ピアノの弾き語りというスタイルだったし、
矢野さんも、そうだった。
それだけでもう、音楽は成り立っている。
たとえばドラムでビートをキープしなくても
矢野顕子の世界は成り立っていて。
いまも、ですけど。
アメリカに行って、更にそういう人たちと組めば、
それはもう、何倍にもなって、
聴く人もさらに楽しむことができる。
とにかくびっくりしました、
あの時代に「JAPANESE GIRL」は。

(ふたりの出会いの頃の話、明日につづきます)

2021-10-25-MON

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  • 『音楽はおくりもの』

    矢野顕子

    1976年の『JAPANESE GIRL』以来、
    斬新かつ親しみある音楽を発表しつづけている
    矢野顕子さんの、最新オリジナルアルバムです。
    タイトルどおり、音楽から受けてきた恩恵と
    音楽に対する敬意、たのしさが詰め込まれた
    矢野顕子さんの音楽完成度の高い一枚。
    これは長年のファンのみなさまにも
    きっと好きなアルバムになるでしょうし、
    はじめての方にもとてもおすすめです。
    さまざまなアーティストからも絶賛を受けています。
    アルバム収録曲全10曲のうち、
    糸井重里作詞作品が4曲入っています。
    12月にはさとがえるコンサートも予定されています。