本屋さんで大人気の本を手にしたことをきっかけに、
あちこちでずっと活躍しつづけている
平野レミさんに、ひさしぶりにお会いしました。
レミさんのつくる料理のように、
たっぷりまるごと栄養をもらえるようなインタビュー。
みなさんは、鏡の中の自分、笑ってますか?
お話をうかがったのは、ほぼ日の菅野です。

※このインタビューは、毎週水曜にほぼ日がお届けしているメールマガジン
「ほぼ日通信WEEKLY」の再編集版です。

>平野レミさんのプロフィール

平野レミ プロフィール画像

平野レミ(ひらの れみ)

料理愛好家。シャンソン歌手。
NHK「平野レミの早わざレシピ!」など、
テレビや雑誌などを通じて
数々のアイデア料理を発信。
レミパンやエプロンなどの
キッチングッズの開発も手掛ける。
『私のまんまで生きてきた。
ありのままの自分で気持ちよく
生きるための100の言葉』
『ド・レミの歌』(ポプラ社)など著書多数。
ほぼ日では、和田家のカレーを
紹介してくださったWADA CURRYの動画が人気。
夫は和田誠さん。
父はフランス文学者の平野威馬雄さん。
子は和田唱さん、和田率さん。

写真:鈴木拓也

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第1回 ほんと、みんないなくなっちゃった。

──
レミさん、ごぶさたしています。
平野
ほぼ日の連載で糸井さんに
和田(誠)さんのことを話した、あのとき以来かしら?
──
そうかもしれません。
NHKの「早わざレシピ!」をはじめ、
レミさんのご活躍はずっと拝見してきました。
昨年発売された
私のまんまで生きてきた。』も読みました。
本を読んでしみじみ思ったのですが、
「私のまんまで生きたい」ということは、
けっこう多くの人が
思ってるような気がするのです。
平野
えっ、みんながそう思ってるってこと?
──
のような、気がするんです。
かといって、
自分のままには生きられない。
平野
そうなの?
──
レミさんは「私のまんま」で
生きてきたというわけですよね?
平野
うん、うん、うん、そうよ。
だって人に迷惑かけてないし、
失礼なこともしてきてないし。
ほんとにそのまんま生きてきちゃったのよ。

──
それは‥‥もしかして
ご両親のおかげなのでしょうか。
平野
きっとそうじゃないかなぁ。
まぁ、和田さんのおかげということもあるけど、
やっぱり最初は両親だったでしょ。
家庭環境が自由でのびのびとしてたの。
学校やめたくなったら「やめろ、やめろ」って、
好きにさせてくれたんですよ。
──
レミさんのまわりには、
どうしてそういう人たちばかりがいたのでしょうか。
平野
それはさぁ、
うちの両親のところに来る人たちがみんな、
おもしろい人たちだったからよ。
──
ああーー、家を訪れる人たちも!
平野
すごい人たちばっかりだったの。
だから、学校の勉強よりか、
うちに帰ってきたほうがうんと勉強になったわけ。
いろんな大人がやってきては、
家で猥談から政談からいろんな話をしていくのよ。
おもしろくておんもしろくて、
そりゃ学校なんかいやになっちゃうよね。
──
私は『私のまんまで生きてきた。』の本で、
レミさんが学校をじっさいに
「やめた」ということを知り、驚きました。
それに加えて、えーっと、カモ‥‥
平野
「かもねぎ音頭」のこと?
──
そうですそうです、
「かもねぎ音頭」
そのプロモーション活動がいやで
レコード歌手をやめた、ということも本で知って、
驚きました。
学校も仕事もスパッとやめておられるのが、すごいです。
平野
そうなのよ。
「かもねぎ音頭」ってのが、
私の歌手生活4枚目の曲で、
当時のレコード会社から出した
最後の歌になりました(笑)。
その「かもねぎ音頭」が当時、
ちょっぴり中(ちゅう)ヒットしそうだと
いうことになってさ。
──
中ヒット。
平野
キャンペーンすることになったのよ。
銀座の歩行者天国で、
カゴ背負って、カゴの中にネギいっぱい入れて、
道歩いてる人ひとりひとりに
「かもねぎ音頭よろしくお願いします、
かもねぎ音頭よろしくお願いします」
ってやってくれ、って言われたの。
歩行者天国でよ、ネギを背中によ。

──
つらめなお仕事ですね。
平野
もともとはシャンソンのレコードを
出してくれるというから歌手になったのに。
──
そうですよね、
レミさんはシャンソンの歌い手さんで。
平野
なのにシャンソン出してくれないで、
流行歌を歌わされたのね。
最後にいたっては「かもねぎ音頭」よ。
歌自体はたのしくていい歌ですよ、
でもシャンソンとは遠かった。
「もうできない」っていって、やめちゃったの。
──
すぐにやめるのが、すごいです。
平野
もうやめた。やめた、やめた、やめた!
──
とめたり反対する人はいなかったでしょうか。
平野
反対する人、いたかもわかんないけど、
私は私の人生だから、誰がなんと言おうと、
反対されようが、
やりたくないものはやらないんです。
──
わー。
平野
そうやって、
私は何かがあっても両親のところへ
「ダメになっちゃった」と戻ればよかったんです。
大人になってからは
和田さんのところに帰っちゃえばよかった。
つまりこれまでの私は、
バックボーンがしっかりしてて、
いつでも頼れる人がいたんです。
自由にのびのびできたのは、そのおかげ。
私は両親と和田さんの手のひらに乗っかって、
好き放題してた感じでしたね。
でもね、いまは和田さんも
ストーンといなくなっちゃったでしょう。
あれよあれよと土台がなくなっちゃった。
私はほーんと、悲しみのどん底よ。
亡くなってもう6年目です。
──
寂しさは消えましたか。
平野
消えない、消えない。前と心は一緒よ。
──
6年という月日が、なぐさめてくれませんか。
平野
去年、清水ミッちゃん(ミチコさん)のお正月の
武道館の楽屋に行ったらば、
糸井さんがいらしてたのよ。そこで糸井さんが
「和田誠を囲む会が、
けっきょくコロナでできなかったから、
やんなくちゃね」
なんて話してさ。
糸井さんと私の横にはいつも和田さんがいたのに、
いないのは、さみしいものよね。
──
私はまだ近しい大事な人を亡くした経験がないんです。
両親もいるし自分の家族も健在なんですが、
これから別れていくのが少し怖いです。
平野
そうよぉ、そうよぉ。
親を亡くすときも、そりゃあ悲しいってば。
いなくなるんだからさ、人は。
私は昔から、親がいなくなるのが怖かったんです。
小学生のときからよ。
「お父さん死んでないかしら、
お母さん死んでたらどうしよう」と思いながら、
ランドセルカタカタさせていつも急いで帰ってた。
帰るなり「あー、お母さん、元気だった!」って
毎日言ってたのね。
すごく心配性で、両親がいなくなるのが
いやでたまらなかった。
それがほんとにお父さんがいなくなっちゃって、
お母さんもいなくなっちゃって、
和田さんまでいなくなっちゃった。
ほんと、いなくなっちゃった。

(明日につづきます)

2025-07-22-TUE

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  • レミさんの本、続々出ています。

    『私のまんまで生きてきた。』は、ページをめくるたびに
    レミさんの「名言」が次々と飛び込んでくる本。
    長年レミさんに注目してきた、
    今回のインタビュアーの菅野にとっても、
    あらたな発見がたくさんありました。
    寝る前に開くと、レミさんに元気をもらって眠れます。
    そしてけっこう、声を出して笑ってしまいます。

    また、新装復刊された、レミさんによる初エッセイ
    『ド・レミの歌』もおすすめです。
    黒柳徹子さんによるエッセイ
    「レミちゃんのこと」も巻末収録。