
小説家の橋本治さんと画家の岡田嘉夫さんが
8年もの歳月を費やしてつくった
定価3万5000円、限定150部の豪華本
『マルメロ草紙』。2013年に刊行された
この本の制作過程(=8年間!)を、
テレビマンユニオンの浦谷年良さんが
カメラに収めていたのです。
そして、その貴重な映像が1本の映画となり、
ただいま絶賛公開中です。
足かけ8年におよぶ会議、会議、会議‥‥
ほとんどそれだけの映画なのに、
目が離せないのはなぜだろう。
8年密着して撮って編集した浦谷さんと、
生前の橋本治さんと懇意にされていた
編集者の河野通和さんに、
映画について、橋本さんと岡田さんについて、
ゆっくり語り合っていただきました。
担当は「ほぼ日」奥野です。
浦谷年良(うらたにとしろう)
1947年生まれ、静岡県浜松市出身。1971年、テレビマンユニオンに参加。1974年「遠くへ行きたい・桜島」で演出デビュー。以来、膨大な数のテレビ番組・CM・映画に関わる。長寿番組「世界ふしぎ発見!」(86年~24年)の第1回ディレクターとして知られる一方、深作欣二・伊丹十三・宮崎駿・高畑勲・是枝裕和などの制作現場を記録するメイキング作品を数多く生み出した。代表作、86年「伊丹十三の『タンポポ』撮影日記」98年「『もののけ姫』はこうして生まれた」00年「映画は戦場だ 深作欣二inバトル・ロワイアル」。橋本治氏とは、80年「ピーマン白書」84年「パリ物語」のドラマ脚本を依頼したあと、さまざまな親交を重ね、06年『マルメロ草紙』制作過程の撮影を頼まれることになった。
河野通和(こうのみちかず)
1953年、岡山市生まれ。1978年、中央公論社(現・中央公論新社)入社。「婦人公論」「中央公論」編集長を歴任。2008年6月、同社を退社後、日本ビジネスプレス特別編集顧問を経て、2010年6月、新潮社に入社。2017年3月まで、季刊誌「考える人」編集長。同年4月、ほぼ日に入社し、2021年10月まで「ほぼ日の学校(學校)長」を務める。現在、編集者・読書案内人。京都橘大学客員教授、たちばな教養学校Ukon学頭。著書に『言葉はこうして生き残った』(ミシマ社)、『「考える人」は本を読む』(角川新書)がある
映画『狂熱のふたり』より
- ──
- 浦谷さんと橋本治さんとの「出会い」は、
どういう感じだったでしょうか。
- 浦谷
- 1977年、橋本さんの『桃尻娘』を読んで、
「この人はすごい」と思って‥‥。
- 河野
- あれ、大学(東京大学)のときには、
付き合いはなかったんですか。
- 浦谷
- ないんです。すでに橋本さんは、
駒場祭のポスターで有名人だっただけど。
- ──
- 「とめてくれるな おっかさん
背中のいちょうが 泣いている
男東大どこへ行く」
というコピーで有名なポスターですよね。
- 河野
- そう。橋本さんが
東大の2年生のときに書いたものですね。
- 浦谷
- わたしはそのとき3年生で、本郷にいた。
- 橋本さんのことは、ポスターのことで
もちろん知ってたんだけど、
その後、発表された『桃尻娘』を読んで、
すごい人が現れたと思ったんです。
- ──
- でも、まだ交流はなかったんですね。
- 浦谷
- そう。1980年に、テレビマンユニオンで
『ピーマン白書』
というドラマをつくることになった。 - 25人の少年少女が中学校を集団脱走して、
小学生からやり直したいと言って、
受け入れてくれる小学校を探して、
全国を訪ねて回るというドラマなんです。
- ──
- おもしろそう‥‥。
- 浦谷
- 脚本を書いたのは佐々木守、ディレクターが3人。
わたしは第4話を担当したんですが、
そのときに、25人もの少年少女のセリフを
平気で書きわけられるのは、
橋本治しかいないだろうと思ったんです。 - そこで、橋本さんに電話したんですよ。
いまから考えたらずいぶん失礼な話なんですけど、
「お忙しいだろうから、
セリフだけ書いてくれませんか」って。
- 河野
- ええ。
- 浦谷
- そしたら橋本さんは
「書くんだったら、ぜんぶ書く」と言ってくれた。
そこで、打ち合わせに行ったんですね。 - 当日、待ち合わせの喫茶店に
20分くらい早く着いちゃったんですけど、
近くで、
橋本さんが日本語教室をやってるということで、
どんなものかと見に行ったんです。
そしたらそれが、素晴らしい講義だったんです。
- ──
- 素晴らしい、というと?
- 浦谷
- 平安時代の文学‥‥つまり古典古文の世界には、
「をかし」と「あはれ」がある、と。 - で、われわれが『枕草子』を読もうとするとき、
「をかし」の訳語が
10個くらいズラっと出てきますね、と。
そんな教科書はおかしいと橋本さんは言うわけ。
- ──
- 「をかし」の訳語10個は、おかしい。
- 浦谷
- 平安時代に一言で言えたものは、
現代の言葉だって一言で言えるはずだ‥‥って。 - つまり「をかし」は「かっこいい」、
「あはれ」は「ジーンときちゃう」だ‥‥って。
それを聞いて、わたしは感動してしまった。
その後、「をかし」は「素敵」になるんだけど。
- ──
- なるほど‥‥。
- 浦谷
- その直後、約束していた喫茶店で落ち合うなり
「橋本さん、いまの調子で
『枕草子』をぜんぶ訳してくださいよ」
ってお願いしたんです。
すぐには引き受けてくれなかったんですけど、
「あなたにしか訳せない」と言い続けて、
7年後、橋本さんは逐語訳を完成させました。 - それが『桃尻語訳 枕草子』という本です。
橋本治の作品の中でも、
当時いちばん売れたんじゃないかなあ。
- ──
- そういう出会だったんですね。
- 浦谷
- ドラマの『ピーマン白書』に話を戻すと、
25人のセリフを
みごとに書きわけた橋本さんのシナリオ、
本当におもしろかったんだけど、
びっくりしたのは、彼の観察と分析です。
- 河野
- ほう。
- 浦谷
- 橋本さん、25人の俳優や子役を見に来て、
どんな子たちなのかつぶさに観察して、
プロフィール写真も持ち帰って
この子の父親と母親はこういう人で‥‥と
25人全員をデータベース化して、
子どもたちの
教室でのさまざまな関係性も逐一観察して、
そのうえでセリフを書いたんです。
- ──
- すごい。
- 浦谷
- しかも、担当したのは「4話目」だから、
1話から3話までのセリフも前提にしながら、
素晴らしいシナリオを書いてくれた。 - ただし、わたしがまだ若くて演出力が未熟で、
「脚本に勝てなかった」んです。
つまり、十分に橋本さんのシナリオの魅力を
伝えられなかった。
- ──
- そうなんですか。そんな思いが。
- 浦谷
- うん。だから悔しくて、リベンジしたくて、
いつかもういちど、
橋本さんに書いてほしいと思ってたんです。
- ──
- 雪辱戦を誓った。
- 浦谷
- 次のチャンスがやってきたのは
『IBMスペシャル』という美術番組でした。
1本目は重延浩が「印象派」をやって、
2本目は森健一が「ルネサンス」をやった。 - 3本目は「エコール・ド・パリ」で、
「浦谷、演出しないか」と、
当時の上村喜一プロデューサーに言われて
つくったのが、
『パリ物語 1920'S青春のエコール・ド・パリ』
というドラマだったんです。
- 河野
- 財津一郎さんが出版社の編集長役なんですよね。
- 浦谷
- そうそう。
エコール・ド・パリの画家たちのムック本を
つくろうと財津編集長が思いついて、
編集部員の柄本明さんをパリに派遣する。
で、カメラマンとして、自分の元愛人だった
竹下景子さんを同行させるんです。 - そのふたりがパリをめぐるというドラマです。
これも「書けるのは橋本さんしかいない」
ということで橋本さんにお願いに行きました。
- ──
- おおー。
- 浦谷
- 橋本さんは、ずーっと都市論は嫌だなあとか、
言ってたんだけど、
「いや、このドラマは、あなたしか書けない」
と口説いて、書いてもらいました。 - 今回のテーマは「エコール・ド・パリ」、
つまり学校(エコール)だから、
わたしにとっての
学校物語『ピーマン白書』の雪辱戦なんだと
無理やりこじつけて(笑)。
(つづきます)
2024-12-23-MON
-

橋本治さんと岡田嘉夫さんの本づくりも
規格外ならば、
その「打ち合わせ」を8年も追いかけた
浦谷年良さんの仕事も規格外。
会議、会議、会議‥‥の映画なのに、
観るのをやめられませんでした。
「こういう本がつくりたい!!」という
おふたりの狂熱の様子を見ているだけで、
あっという間に
スクリーンの中の「8年」が過ぎました。
12月28日までポレポレ東中野で公開中、
その後は
神奈川のシネマ・ジャック&ベティなど
順次各地へ巡回していく予定とか。
最新の劇場公開情報については、
公式ホームページで、ご確認ください。