いまから70年も前に、
青森の市井の人々を活写した人がいました。
工藤正市さんです。
新聞社につとめながらカメラ雑誌に投稿し、
のちに有名写真家となるライバルたちと
並び称されていたにもかかわらず、
いつしか、写真を辞めてしまった正市さん。
70年後‥‥正市さんの死後。
お父さんのネガを実家の天袋から発見した
娘の加奈子さん夫妻が、
作品をインスタグラムに投稿しはじめるや、
じわりじわりと話題になり、
先日、ついに写真集まで出てしまいました。
その顛末を、工藤加奈子さん、
安彦龍太郎さんご夫妻に、うかがいました。
担当は「ほぼ日」奥野です。
工藤正市(くどう・しょういち)
1929年、青森市生まれ。1946年、青森県立青森工業学校卒業。同年、東奥日報社入社。印刷部を経て、写真部に所属。1951年ごろより雑誌『CAMERA』『アサヒカメラ』『日本カメラ』等に投稿をはじめ、以降、多くの写真作品がコンテストの入選・特選に選ばれる。若き日の東松照明氏、奈良原一高氏らと、カメラ雑誌の誌上座談会にも参加。1956年ごろからコンテストへの応募をやめ、以降、新聞社の仕事に専念するようになる。1988年、東奥日報社取締役弘前支社長兼編集部長を経て、同社を退職。2014年、逝去。享年84歳。2021年、写真集『青森 1950-1962 工藤正市写真集』(みすず書房)刊行。工藤正市さんのInstagramは、こちら。
- ──
- 以前、写真家の大森克己さんに
インタビューさせていただいたときに、
大森さんが教えてくれたんです。
- 工藤
- はい。
- ──
- 工藤正市さんという人の写真のことを。
- そのとき、大森さんは、
他の誰にも撮れない写真だと言ってました。
つまり、工藤正市さんという人が、
70年前の青森の、この場所にいたんだと。
そういうことを感じさせてくれる写真だと。
- 工藤
- うれしいです(笑)。
- 当時、まだ20代だった父は、
こういう写真を、
当時のカメラ雑誌に投稿していたみたいで。
- ──
- へえ‥‥すごく古い雑誌ですね。
右側の「漁夫」が工藤正市さんの作品ですね。 - うわ、となりは細江英公さんの作品だ!
- 工藤
- そうなんです。
- ──
- すごいな。55年‥‥っていうと、たぶん、
森山大道さんが
細江さんの助手になる前ですから、
細江さんも、まだまだ若かった時代ですね。
- 安彦
- そうみたいです。
- ──
- 1ページまるまる使って、
こんなに大きく掲載されているってことは、
「入選」的な扱いですよね。 - 若き日の細江さんと並び称されていたんだ。
ひゃー‥‥。
- 工藤
- これはアルス社の『カメラ』という雑誌で、
父は、よく作品を投稿していたみたいです。 - 選者が土門拳さんと木村伊兵衛さんだから、
がんばったんだって言ってました。
- ──
- 正市さん、ご本人が?
- 工藤
- はい。
- ──
- そのふたりが、お好きだったんでしょうか。
- 工藤
- あと、濱谷浩さんかな。
- ──
- 名作『雪国』を遺した写真家ですね。
- はあ‥‥でも、お父さん、
あらためてすごい人だったんですね。
- 工藤
- 雑誌に掲載された作品って、
ネガが残っているものもあるんですけれど、
ほとんどは、手元になくて。
- ──
- 投稿したまんま、そのままになっちゃった。
- まだ、この時代のイラストだとか写真って、
有名な作家の作品でも、
雑誌をつくる際の「原稿」ってことで、
編集部に渡したオリジナルは
遺失してしまってることも多いそうですね。
中原淳一さんなんかも、そうだったって。
- 工藤
- 似たような構図のものは、あるんですけど。
- ──
- 編集部に送らなかったアザーカットですね。
- でも、こういう雑誌があったんですね。
すみません、不勉強で、知りませんでした。
- 工藤
- 国会図書館にもほとんど残ってないんです。
この雑誌。 - 古本で少しずつ見つけたり、
今回、父の写真集をつくってくださった
みすず書房の担当の方が、
日本カメラ博物館で
誌面をコピーしてきてくれたり、
そうやって、少しずつ集まってきて。
- ──
- でも、紙焼きはもちろん、
ネガも手元に残されていない作品なんかは、
こうして
当時の雑誌で見る以外にないわけですよね。 - 実のお父さんが撮った写真なのに、
このまま、
知らないままになっちゃう作品とかも‥‥。
- 工藤
- あるかもしれないです。
この『日本カメラ』では対談に出てるんです。
- ──
- わー、すごい。本当だ。
奈良原一高さんたちと「20代作家座談会」。 - 座談会のタイトルが
「ぼくたちはこれから何をやるか」‥‥って。
完全に「未来を嘱望された若手写真家」だ。
- 工藤
- 奈良原さんは、まだ大学生だったみたい。
- ──
- お父さんは、どんなことを話してるんですか。
当時ですから、熱い写真談義というか、
写真に燃えて‥‥みたいなことなんですかね。
- 工藤
- そうですね。
青森じゃ写真を教えてくれる人がいないから、
雑誌に投稿して勉強するしかない‥‥とか。 - ずっと年下の奈良原さんに、
好きにやればいいじゃないかみたいなことを、
言われたりしてます。ふふふ(笑)。
- ──
- 加奈子さんは、
このときってまだ、おうまれになっては‥‥。
- 工藤
- いません。
- ──
- じゃあ‥‥若かりしお父さんの青春の活動を、
こうやって、時を超えて、
古いカメラ雑誌の誌面で見ているわけですね。
- 工藤
- そうなんです(笑)。
- ──
- 土門拳さん、木村伊兵衛さん、細江英公さん、
植田正治さん、濱谷浩さん、奈良原一高さん。 - その、そうそうたる「ビッグネーム」の中に、
お父さんの、工藤正市さんがいる。
- 工藤
- もう、まわりにいるのが有名人すぎて、
誰なんだろうって感じですよね、今となれば。
- ──
- 面識は、あったんですかね?
その方々とは。
- 工藤
- たしか、木村伊兵衛さんだとか土門拳さんが
青森へ撮影旅行にいらしたとき、
案内役として帯同していたとは聞いています。 - 誰かの有名な千人風呂の写真とかを見てたら、
「このとき、となりにいたよ」みたいな。
- ──
- おお。
- 工藤
- 木村さんや土門拳さんが、
こんどは、あれを撮りたいとかって言うんで、
許可を取りに行こうとしたら、
どんどん
許可を取る前にシャッター切り出しちゃって、
お父さんが
あとから謝りに行ったんだとか、そんな話で。
- ──
- ははは(笑)、なるほど。
- 安彦
- 実際、押し入れに入ってたのは、こんな状態。
本当にこういう、無造作な感じで。 - すでにスキャンしてしまった作品は、
きちんとしたファイルに保管していますけど。
- ──
- わああ‥‥。
- よくも何十年も、押し入れの奥の奥のほうに、
ただもう、こんな状態で。
- 工藤
- たぶん、本人としては、
いつ捨ててもいいくらいの感じだったんだと
思うんですよね。
- ──
- そうなんですか。
- その「大量に出てきたネガ」というものは、
これまでに、どれくらい‥‥。
- 安彦
- えっと、スキャンしただけで、約1000枚。
スキャンしていないものが、
まだ、もうちょっとあるって感じです。
- ──
- もともとは
東奥日報の写真部で写真を撮っていたわけで、
つまりは
カメラマンさんだったってことですよね。
- 工藤
- そうです。
- 安彦
- だから、いかにも仕事みたいな写真もあれば、
取材の途中かなんかに、
おもしろいと思ってパッと撮ったような、
そういう、
仕事とプライベートが混じった感じの写真も、
けっこうあります。
- 工藤
- 下北半島のサルを発見したのは自分なんだと、
言ってたことがあるんです。 - いわゆる「北限のサル」で今は有名ですけど、
当時はUMAみたいな扱いで、
青森にサルがいるはずないって思われていて。
- ──
- へええ。
- 工藤
- 青森市の人に聞いても、
噂は知ってるけどまさかねって感じだったと。 - でも、父が、雪深い山の中に入っていったら、
サルがいたんですって。
それを撮って大スクープになったらしいです。
- ──
- それが「北限のサル」として、有名になった。
そういう功績もお持ちなんですね。
- 工藤
- 当時、東奥日報の一面トップになるくらいの
大ニュースになったらしいです。
- 安彦
- これは、そのときの写真とは違うんですけど。
- ──
- おー、おサルだ。親子かな。かわいい(笑)。
- 工藤
- 当時は、パソコンなんて当然ありませんから、
すぐにフィルムを現像して、
「電送」という機械で送ったらしいんですね。
あまりのスクープだということで。 - でも、その当時の機械なので、
写真を送っちゃうと、
あと3文字しか文字を送れなかった‥‥って。
- ──
- ああ、そういう時代。3文字で、何と?
- 工藤
- サルって書いちゃったら、もう2文字で、
あと1文字しか使えない。
他にもう、何も言えなくなっちゃうから‥‥。
- ──
- サルであることは、写真を見れば、わかるし。
- 工藤
- そうですよね(笑)。
なので「ホント」って、送ったんだそうです。
- ──
- ああ、「フェイクじゃないぞ」と。
- 工藤
- そう、あのうわさは本当だったという意味で、
「ホント」って編集部に送って、
その日の夕刊に掲載されたみたいな話でした。
- ──
- そういう通信の手段しかない時代ですもんね。
- 今は、スマホで撮って、現像も電送も要らず、
LINEでピコピコ送れますけど。
- 安彦
- それどころか、その当時の「電送」‥‥って、
「写真伝送装置」と言って、
すごくデカくて、バッテリーも重くて、
背負子みたいなのでかついで行ったそうです。
- ──
- そんな物体でも「モバイル」だったんですか。
めちゃくちゃ重たいのに。 - 写真を、どういう方式で送っていたんだろう。
- 工藤
- ねえ、何なんでしょうね。
- 郵便局でなんとかって言ってた気もするけど、
今となっては、わからないです。
- 安彦
- とにかく、それがもとで「腰」を‥‥。
- ──
- いわゆる、「いわしちゃって」?
- 工藤
- そう(笑)。そんなに重たい機械をかついで
雪山を漕いで歩いていたから、
それから腰痛になっちゃったと言ってました。
- ──
- はあ‥‥ちなみに、正市さんとは、
生前から、写真の話はよくされてたんですか。
- 工藤
- そんなにはしてないですね。
本当、たまにって感じです。
- ──
- カメラはやってなかったんですか、晩年?
- 工藤
- ええ、最後は写真部の部長だったんですが、
たぶん管理職になってからは、
あんまり撮らなくなっちゃったみたいです。
- ──
- 若いころ、あれだけ注目されていたのに。
- 工藤
- 仕事では撮ってたと思いますよ。記事用では。
ニュースのためというか‥‥。
- ──
- でも、それくらいですか。
あれだけ旺盛に、写真を撮っていた方が。 - ある時点で、辞めちゃった‥‥んですか。
- 工藤
- 少なくとも雑誌投稿は、辞めていますね。
- ──
- 略歴を見ると、雑誌のコンテストなどに
入選しはじめてから
投稿を辞めるまで「5〜6年」ですよね。
- 工藤
- ええ。
- ──
- 押し入れの奥から
1000枚以上のネガが見つかった‥‥
のも、すごい量には違いないけど、
デジカメの時代からすれば
「たった1000枚」とも言えるわけで。 - おどろくほど短期間のあいだに、
写真の才能を開花させていったんですね。
- ──
- 土門拳さんや木村伊兵衛さんをはじめ、
あこがれの人に
評価されるのはうれしかったでしょうし、
たとえそれが
酷評であってもうれしかったと思うけど。
- ──
- ええ。
- 工藤
- ひとつには‥‥名前が知られるにつれて、
知らない人たちに
いろいろ言われるのが、
嫌だったのかもしれないなとは思います。
- ──
- なるほど‥‥そうなんですか。
- ちなみにですけど、
正市さんが写ったお写真ってありますか。
- 工藤
- ああ、これ。64年の東京オリンピック、
青森の選手団を取材しに行ってるんです。 - これが父です。
- ──
- どちらが、お父さん‥‥正市さんですか。
- 工藤
- 右です。
(つづきます)
2021-10-05-TUE