行方不明の2歳児を発見して世に知られることになった
「スーパーボランティア」の尾畠春夫さんは、
小さい頃から、なにもかもを「世間」で學んできた。
緑綬褒章を受賞しても、なにも変わらずのねじり鉢巻。
由布岳の現場で、じっくりおもしろく語ってくれました。
聞いたあとにはなにかしたくなる!
動画で配信中の「ほぼ日の學校」の授業の一部を
読みものでご覧ください。
尾畠春夫(おばたはるお)
ボランティア活動家。
1939年、大分県安岐町(現・国東市)に生まれる。
小学生のときに農家に奉公に出され、
中学を卒業してからは
魚屋などで修行して独立資金をためる。
29歳のとき、別府市で魚屋「魚春」を開店。
65歳のときに店を閉めてからは、
地元大分の由布岳山道整備を手始めに、
東日本大震災の被災地支援など
全国各地でボランティア活動を行ってきた。
2018年に山中で行方不明になっていた
2歳児をひとりで発見して
一躍全国にその名を知られることになった。
-
- 糸井
- 本日お相手をさせていただく、糸井と申します。
よろしくお願いします。
- 尾畠
- 本日作業させていただく“菅”と申します。
- 糸井
- 噓でしょ(笑)?
- 尾畠
- 間違った、噓やな。
- 糸井
- そういう人だったんですか(笑)?
- 尾畠
- あんまり近づかない方いいぞ。
- 糸井
- (笑)
“管”さん、よろしくお願いします。
- ー尾畠さんの免許証を見ながら
- 糸井
- 確か大型免許も持っていらっしゃいますよね?
- 尾畠
- 血液型もO型です。
- 糸井
- (笑)
- 尾畠
- 生まれた時はO型で、
50歳過ぎたらクワガタになって、
今80歳になってガタガタになりました。
- 糸井
- それ持ちネタですか?(笑)
服装は全体的に赤っぽい服が多いですね。
- 尾畠
- 赤はあまり好きではないんですよ。
“RED”が好きです。
- 糸井
- ”RED”がLIKEなようですね(笑)
小学5年で丁稚奉公へ
- 糸井
- “学ぶ”ということは、
尾畠さんにとってどういうことでしょうか?
- 尾畠
- 大分県速見郡八坂村出身で、
そこの八坂小学校と八坂中学校に通って、
学びが終わりました。
- 糸井
- 中学校はあまり通っていなかったとお聞きしました。
- 尾畠
- 小学4年生の終わりにお袋が41歳で亡くなりました。
- ある日「春夫よぉ」と親父に言われ、
「何かい?」と聞いたら、
「うちは貧しいで、お前みたいな大飯食らい
ウチじゃ養ってやれんから、農家へ奉公行け」っちゅうて。 - うちでは腹一杯食べる人を
“大飯食らい”と言うんです。 - 小学5年生の1学期から中学校出るまでずっと
奉公に行っちょった。
- 糸井
- 通学する時間はあまりなかったですよね?
- 尾畠
- いや、ありましたよ!
5年間で4ヶ月くらい通いましたかね。
- 糸井
- お母さんが亡くなったことは、
人生の中で大きな出来事でしたか?
- 尾畠
- そうですね。
私の人生の中では。
- 糸井
- お父さんとの関係は?
- 尾畠
- 大きな声じゃ言えないけど、
親父は「飲む」「打つ」「買う」が好きな男で、
中でも「買う」が1番好きだったみたいです。
- 糸井
- あまり家にいませんでしたか?
- 尾畠
- 少し小銭ができれば、
別府競輪行ったり中津競馬行ったりしていましたね。 - 金が出来れば遊郭にも行っていました。
当時はまだいっぱいあったので。
- 糸井
- お母さんが亡くなってからは、
誰にも面倒を見てもらえませんでしたか?
- 尾畠
- 見てもらってないです。
- 糸井
- 今思えば、大変なことでしたよね。
生活していくには本当に困った状況だ…。
- 尾畠
- そうでしょうね。
- 糸井
- 尾畠さんは四男でしたっけ?
- 尾畠
- 私は三男です。
長男がいて長女がいて次男がいて私ですから。
4番目に生まれましたが、三男です。
- 糸井
- 小学5年生から農家の養子になったということですか?
- 尾畠
- 養子ではないですよ。
丁稚奉公です。
- 糸井
- 仕事として行ったと…。
- 尾畠
- そうですよ!
- 糸井
- 農家の家の息子になったわけではないんだ…。
- 尾畠
- ちがうちがう!
いち労働者として行きました。
- 糸井
- 同じような境遇の人は他にいましたか?
- 尾畠
- 知りません。
そんなこと考える余裕なんかないです。
- 糸井
- 周りはどうだったかなんて分からない?
- 尾畠
- 八坂中学第8回卒業生の同級生は109人おったけど、
中学を出るまでに奉公に出とったのは私だけです。
まずは生きちゃれ!
- 糸井
- 子ども心に、農家では何を学びましたか?
- 尾畠
- 学ぶというよりも学ばざるを得なかったです。
「やれ」と言われた事は、絶対にやらないと。
- 糸井
- 怒られるんですか?
- 尾畠
- 怒られるというよりも、
もう飯を食わしてくれんかったな。
当たり前のことでしょ。 - あなたも今日この仕事の途中で
「尾畠の顔見るの嫌だから先に帰る」
と言ったら、給料くれませんよ。
違います?
- 糸井
- 小学5年生からとにかく周りを見て、
学んでいたのですよね?
- 尾畠
- “学ぶ”というより、
学ばざるを得ない状況でした。
- 糸井
- 思い出してみると、どんな感じでしたか?
- 尾畠
- 風呂を沸かすのも、お湯を沸かすのも、
ご飯を炊くのも、味噌汁をつくるのも、
全部薪でした。 - 腹が減った時は、その辺にいる
カマキリとかムカデを串で焼いて食べていました。
- 糸井
- それほど食料がなかったのですか?
- 尾畠
- あの時代は本当になかったです。
- 糸井
- 腹一杯になるなんてことは…
- 尾畠
- なかったです。
- 種牛とか種馬は普通の農耕馬と違って、
少し栄養があるものを食わせるんですよ。
常日頃から栄養のある、
いつでも精子が出るようなものを食わせなきゃいけない。 - だから私は、種馬や種牛に食わせる、
麦とかカボチャを食っちゃう。
- 糸井
- それは普段食べているご飯以上に、
いいものですか?
- 尾畠
- いいか悪いかは知らんけど、
空腹に不味いものなし。
食わんと生きていけんのやから。
- 糸井
- その頃、将来はどうなりたい、
とか考えたりしましたか?
- 尾畠
- そんなん考える余裕ないです。
「まずは生きちゃれ!生きないけん。」
という気だったしね。
- 糸井
- 農家での生活は、毎日早起きをするわけですよね?
- 尾畠
- 朝5時に起きて、馬を引き、
40分から1時間うちの家から歩いて
ひと山越していました。 - 八木田という大きな池の周りに生えている草が目的です。
- 私が奉公に行った農家は、
種馬と種牛と普通の馬の3頭を飼っちょったから、
3頭が1日に食べる量の草を刈り、持ち帰りました。
- 糸井
- 山を越えていたのですか?
- 尾畠
- そうです。毎朝越えていました。
- 糸井
- 5時に起きて、馬のもとに帰ってくるのは、
何時頃ですか?
- 尾畠
- もう学校行く直前ぐらいまでやったな。
- 藁切りで藁や草を切って、
入れ物が山盛りいっぱいになるまで作って、
馬と牛が食べる分を朝と昼に分けて用意してから
学校に行きよった。
- 糸井
- 最初にそのやり方を教わるのですか?
- 尾畠
- 「お前これが藁切りだよ」って、
鎌の持ち方や馬の鞍の付け方を最初に教えてもらうな。
1度教わったあと、2度目は聞いたことがありません。
- 糸井
- 他の子ども達が学校で勉強している時間に
それをやっていたのですか?
- 尾畠
- そうですよ。
親が行けちゅうから行ってんの。
物はなくても知恵はある。
- 尾畠
- その頃、親父に
「この世の中で3人の言うことは天の声として聞け」
と教育されたんです。 - 3人とは、親、学校の先生、お巡りさんです。
この3つは天の声として聞けと。
- 糸井
- そういう時代だったのですね。
- 尾畠
- 今はお巡りさんの言うことはあまり当てになりませんけど。
- 糸井
- 親はそういう風に生きていたってことですね。
- 尾畠
- 「天の声と思って聞け」と
子どもの頃に教育された。
- 糸井
- 小学5・6年生の当時は、
まだ世の中のことを知りませんよね。
- 尾畠
- 知らないことがほとんどです。
- 親父は下駄屋の商人で、私はその子どもでしたから
草の刈り方も知りません。
馬を触ったこともなかったですよ。
- 糸井
- それを中学生にもならない子どもに
やらせていたっていうのは、
今考えれば…。
- 尾畠
- 切羽詰まってね、食うのも食えねえ、
水も飲みたいもの飲めんかったら、
人間っちゅうのはな…やります。 - 物は有限だけど、
知恵は無限にありますから。
- 糸井
- 今持っている「生きる力」は、
そこから始まったんですね。
頼りになるのは、ずっと自分。
- 尾畠
- 生きざるを得なかった、やらざるを得なかったんです。
見ざるを得ない、手を出さざるを得ない状況ですよ。 - 手を出さなくてよかったら、
馬や牛の糞を手に握って畑に撒いたり、
その糞が付いてベタベタする手で、
芋を畑からほじくり返してかじったりしません。 - 手を洗わないと馬の糞も牛の糞も口に入りますが、
水道の蛇口を捻ったり川に行ったりして
洗う時間なんてないんです。 - 人間って追い詰められたら粛々とやります。
する気がないから出来ないだけ。
- 糸井
- そのくらい追い詰められると、
死ぬなんて思いもよらない…。
- 尾畠
- 思わん!糞っくらえだ、死ぬなんて。
今でも私は死ぬなんて絶対に思いません。 - 私は10月12日で82歳になるけどね。
「あと50年生きる」って言った。 - 「生きる」と言っても、
ただ心臓が生きて生きるのは、
それは生きてるんじゃない。 - 自分で思ったことができること。
両足で歩けること。
両手で物を持つこと。
自分の目で見ること。
これを私は「生きる」って思ってるんです。
- 糸井
- そこからその考えがスタートしていたのですね。
- 尾畠
- いやそこからではなく、
少しずつ色んなことの積み重ねで
このような考え方になりました。
- 糸井
- 中学までの尾畠さんは、
何かができるとかできないとかではなく、
それをやるしかない場所にずっといたのですね。
- 尾畠
- やらざるを得んかったです。
- 家族のみんなが寝ても、
夜の9時から11時まで
お爺ちゃん、お婆ちゃん、若夫婦、
子ども2人と私の7人分の藁草履を、
毎晩1人で作っていました。 - 晩飯を食った後、
自分で藁を打って、水を掛けて打って、縄をなって。
あなたは縄をなったことはありますか?
- 糸井
- ありません。
- 尾畠
- なった縄を今度は水に少し濡らして
水切りをして、編んで縄をかけて取って、
藁を打って編むんです。 - その後鼻緒を付けないけんから
鼻緒は鼻緒で別に作って付けました。
親父さん、お婆ちゃん、若旦那、若奥さんの分。
子どものやつは小さいのにせないけんと。 - そして自分の分は自分で持ってく。
こうして毎晩藁草履を作っていましたね。
- 糸井
- 「先はどうなる」とか「死んじゃおう」とか
「がっかりした」とか「 羨ましい」とか
そういう気持ちは何も生まれないのですね。
- 尾畠
- その日のことで一生懸命!
いかに24時間を生きるか。
明日のことなんか考える余裕ないです。
- 糸井
- 疲れてもないのですか?
- 尾畠
- 疲れていますよ。
疲れているけどやるだけなんです。
言われたことだけしてしまわんといけん。
- 糸井
- 自分1人になっても生きていかなければならない…。
- 尾畠
- そうですね。
- 糸井
- 当時の自分が頼りにしたものって、何でしたか?
- 尾畠
- 自分です。
今でも、一番頼りになるのは自分です。
尾畠春夫さんの授業のすべては、
「ほぼ日の學校」で映像でご覧いただけます。
「ほぼ日の學校」では、ふだんの生活では出会えないような
あの人この人の、飾らない本音のお話を聞いていただけます。
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もしくはWEBサイトから。
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