「ブランドを育てることに、早送りってないんだよね」

2012年にジュエリーブランド「muska」（ムスカ）を立ち上げ、
2023年に至るまで、デザイナーとして無二の作品を送り出してきた
田中佑香さんが話してくれたその一言が忘れられずにいる。

muskaのジュエリーは、
自然や神話などから着想を得てきた。
たとえば「su（スー、トルコ語で水の意味）」のシリーズでは、
古くから水のシンボルとされ、
生命や豊穣の象徴とされてきた魚が
泳いでいる様子をかたどったリングを。
「çiçek (チチェック、トルコ語で花の意味)」のシリーズでは、
「自身の庭園を作る」というコンセプトのもと、
花茎と葉の部分が揺れるピアスを制作した。
天然石やパールが留められ、
もともとは刀や仏具を装飾する技術として日本で用いられた
「和彫り」が施される。
自然の産物である鉱物を用い、手仕事で仕立てる特性上、
同じシリーズの商品でも、全く同じものはひとつとない。

提供写真：佑香さんのスケッチをもとに制作がはじまる

　

立ち上げ当時、デザインから制作までの全てを
佑香さんがひとりで担っていたが、ほどなくして、
制作は各工程を職人と連携する体制へ。
2018年には、夫の拓郎さんが、
勤めていた会社を辞め、夫婦で会社を設立。
翌年、ジュエリーショップ「第六夜」をオープンしてからは、
接客などを担当するスタッフも加わり、
ひとり、またひとりと
「まるでRPGのように」仲間が増えていったのだと、
佑香さんはうれしそうに話す。

婦人科系の疾患療養のため、
2023年9月にブランドの休止が発表されると、
これまで経験したことのない数の受注、制作、納品を、
わずか5名程のチームで走り抜けた。
そんな怒涛の日々を経て、
佑香さんが本格的に体を立て直そうとしていた2024年の春。
「ふたりはどんな景色を見てきたの？」という私の問いに、
佑香さんが返してくれたのが冒頭の言葉だった。

提供写真：muska最初のジュエリーは、「ay」（アイ、トルコ語で月の意味）のネックレス。muska立ち上げ直前に佑香さんが海外へ渡った友人のためにデザインしたもの。色糸から紐を編み、サンゴやパールを刺繍していく

　

佑香さんの手から生み出されるジュエリーが
「muska」という名で束ねられるまでには、
10年近い下積み期間があり、
その間には否応なしに
ページが切り替わるような転機があった。

大学在学中にアンティークビーズを使った
アクセサリー制作をはじめた佑香さんは、
「もっと長く使えるものを」と、
素材を耐久性のあるゴールドや宝石に切り替えることを決める。
卒業後、就職ではなく、
宝飾専門学校で技術を習得することを選択し、
その後、彫金職人に師事しながら、
受託仕事と並行して作品を作りためていった。

このとき、アクセサリーの制作から数えれば
すでに8年が経っている。
自分の作品のもつ美しさを信じながらも、ある瞬間には、
それが生活の糧になっていないことに対する焦りにさらされ、
その間で揺れていた。

佑香

たまに学生時代の友人と集まると、
みんなはとっくに就職をして、
それぞれ希望の分野でバリバリ仕事をしていて。
流れでそういう話になったときに、
「佑香ちゃん、まだアクセサリーを作ってるの？」って
言われたんですよね。
きっと悪気はないんですけど、
「本当にまだアクセサリーを作ってるんだ」っていう
驚きも含んだ感じで。
自分はそれこそ19の頃から作りはじめて、
ずっと下積みをしているような感覚で。
完全にそれで食べていけるわけでもないし、自分の作風すらも、
まだ模索している段階でなかなか先が見えなかった。
どこかで「本当に私、大丈夫かな？
どんどん歳を重ねているけれど、どうなるのかな」って。

田中佑香さん

　

その迷いは、
2012年に夫婦で訪れたトルコで一掃された。
それまで目にしたことがなかった人々のあり方や
自然に触れ、懇々とエネルギーが湧いてくる体験をする。

佑香

人々が実に生き生きしていたんですよ。
商魂たくましく働く人たちが、
モスクに入れば敬虔に祈り、
そして、また「商売するぞー！」と
声が聞こえてきそうなほどエネルギッシュな塊として、
それぞれの場所に戻っていく。
そこには彼らと大いなるものの強い結びつきしかなく、
何かに身を委ねて安心感を得る人たちがもつ、
底力のようなもののすごさを感じました。

　

街をあとにして向かったカッパドキアで気球に乗り、
どこまでも続く地平線と、
朝日が全てを照らしていくさまを見て、
muskaのコンセプトやデザインのインスピレーションを得た。

佑香

それまでの苦しさがブワッと浄化されて、
ものすごくほっとしたんです。安心感みたいな。
身に着ける人が、少しでもこういう気持ちを感じられる、
そんなジュエリーを作ればいいんだ！と、
パーンと閃きました。

　

トルコ語でお守りを意味する
「muska」をブランド名に掲げたのには、
そんな背景があった。

帰国後、佑香さんは
その勢いのまま制作に取り掛かる。
それらを東京・青山のセレクトショップ
「ARTS&SCIENCE（アーツ＆サイエンス）」に持ち込んだことが、
muskaのその後を決定付けた。

同店は、スタイリストのソニア・パークさんが
クリエイティブディレクター兼オーナーを務める、
2003年開業のセレクトショップ。
1号店の代官山店に続き、2号店としてオープンした青山店は
（両店舗ともに現在は移転・リニューアル）、
女性向けのアイテムを中心にセレクトした店舗だった。
佑香さんは、故郷広島で
色彩に関する仕事をしていた母親に連れられ、
大学時代に同店を訪れている。

佑香

お店に入って、本当に度肝を抜かれたというか。
世界中の美しい手仕事、
まさに逸品といえるものが厳かに大切に並べられていました。
学生でしたし、まだ、何も分からないようなときでしたけど、
「あぁ、世の中には
こんなに美しく仕立てられたものがあるんだ」ということに
衝撃を受けたんです。商品だけじゃなくて、
空間、店員さんの雰囲気、そういうもの全て含めて、
ひとつのものすごい世界観が立ち上がっていて。
いつか、ここに並んでいるようなものを
作れるような人間になりたいって。

　

ついにそのときがきたということ。

佑香

これ以上のものを、私は作れないというぐらい、
そのときの自分にとってはベストなものだったんです。
あのとき衝撃を受けた商品と並ぶに値する、
何か力のあるものになっていてほしいという気持ちで
持ち込みました。もう、背水の陣というか。
これで箸にも棒にも引っ掛からなかったら、
自分にはジュエリーや彫金に対する才能はないんだと、
潔く諦めようと思っていました。