居酒屋評論家としても有名な
アートディレクターの太田和彦さんに、
古巣・資生堂宣伝部制作室や
大先輩である仲條正義さんについて、
うかがってきました。
全編、仲條さんへの尊敬に満ちた、
聞いていて、うれしくなるお話でした。
最盛期650万部以上を刷ったという
企業文化誌「花椿」や、
当時、同じ空間ではたらいていた
石岡瑛子さんのお名前も出てきますよ。
全5回の連載。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>仲條正義さんプロフィール

仲條正義 プロフィール画像

仲條正義(なかじょう まさよし)

1933年東京生まれ。1956年東京藝術大学美術学部図案科卒業。同年、資生堂宣伝部入社。1959年株式会社デスカ入社。1960年フリーとなり、1961年株式会社仲條デザイン事務所設立。資生堂企業文化誌『花椿』、ザ・ギンザ/タクティクスデザインのアートディレクション及びデザイン。松屋銀座、ワコールスパイラル、東京都現代美術館、細見美術館のCI計画。資生堂パーラーのロゴタイプ及びパッケージデザイン。東京銀座資生堂ビルのロゴ及びサイン計画などグラフィックデザインを中心に活動。TDC会員金賞、ADC会員最高賞、JAGDA亀倉雄策賞、毎日デザイン賞、日本宣伝賞山名賞ほか多数受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。

>太田和彦さんプロフィール

太田和彦 プロフィール画像

太田和彦(おおた かずひこ)

1946年、北京生まれ、長野県育ち。
東京教育大学(現筑波大学)の教育学部デザイン科を卒業。
アートディレクター、グラフィックデザイナー、作家。
1968年に資生堂の宣伝制作室に入社、
広告、テレビCMなどを制作したのち独立。
1989年に「アマゾンデザイン」を設立し、
出版や編集、装丁など、多方面で活躍。
2000年~2007年、東北芸術工科大学教授。
2004年に
作品集「異端の資生堂広告/太田和彦の作品」を刊行する。
同時に居酒屋評論家としても有名で、
居酒屋についてのテレビ出演、著書、ベストセラー多数。
主なものだけで『ニッポン居酒屋放浪記』『居酒屋百名山』
『超・居酒屋入門』『居酒屋道楽』(新潮社)、
『愉楽の銀座酒場』『居酒屋おくのほそ道』(文藝春秋)、
『居酒屋かもめ唄』『東海道居酒屋五十三次』(小学館)‥‥
など枚挙にいとまがない。

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第2回 仲條正義さん、石岡瑛子さん。

──
資生堂の美学の頂点を極めて独走したのが、
仲條正義さんだった‥‥と。
太田
仲條さんは、
雑誌「花椿」や「資生堂パーラー」など、
主に化粧品以外の資生堂デザインをされている。
「花椿」のような、まったくPR色のない、
水準の高いビジュアル雑誌を、
何十年も発行し続けている企業は世界にないでしょう。
そこで資生堂の企業イメージをしっかり形成し続ける。
それを何十年も続けているのが、仲條さんです。

『花椿』表紙 1983.1 『花椿』表紙 1983.1

──
仲條さんのデザインの特徴って‥‥。
太田
ずばり「アバンギャルド精神」と言いましょう。
前衛と言うと、むやみに闘争的だったり、
理屈ぽかったりしがちですが、それとは正反対。
幸福なアバンギャルド。
──
わあ、幸福な。
太田
こんな作家はいません。
ぼくが思うに、
それが「生きる歓び」に満ちているのがすばらしい。
あらゆるものが、しゃれていて、ユーモアを含み、
温かく、大胆で、隠し味が知的。

『よむ花椿』表紙 2007.8 『よむ花椿』表紙 2007.8

──
生きる歓び、知的な隠し味‥‥本当ですね。
太田
ロゴでも、パッケージデザインでも、
店頭POP、マッチひとつでも、
仲條さんのつくるものは、
すべて仲條さんの個性があり、
それが資生堂の企業イメージになっている。
まさにスーパースターです。

左:資生堂パーラーショッピングバッグ 1990  右:資生堂パーラー「花椿ビスケット」パッケージ 2015 左:資生堂パーラーショッピングバッグ 1990  右:資生堂パーラー「花椿ビスケット」パッケージ 2015

──
仲條さんでありながら、資生堂でもあると。
で、その時代の資生堂宣伝部の制作室には、
もうお一方、
石岡瑛子さんというスターもいましたよね。
太田
はい。
仲條さんは藝大を出て1956年に資生堂入社、
1960年退社。
石岡さんも藝大を出て1961年入社、
1970年退社。
ぼくが入社したのは1968年。
石岡さんとは、2年間だけ、ご一緒できました。
──
仲條さんと石岡さん、タイプとしては‥‥。
太田
ぼくから見れば、正反対かな。
──
どういう点で、正反対ですか。
太田
石岡さんは「コンセプト」が重要。
そのコンセプトに基づくデザインを、
つきつめて、つきつめて、
これしかないと世の中へ挑戦的に提示していく。
絶対に妥協しない。
──
なるほど。
太田
仲條さんは、
そういう正面から論理的に物申すよりも、
おもしろい、楽しい、
ぶっとんだ表現をどんどんやろうよ、
という作家性が横溢している。
でも、表現の根本には、
ゆるぎのないアバンギャルド精神があると
ぼくは思っています。

『花椿』1977.4 『花椿』1977.4

──
おもしろいです、太田さんの解説。
ぼくみたいな素人でも、とても納得できます。
太田
仲條さんのデザインは、
見る人の心を‥‥何て言ったらいいのかな、
楽しくしてくれるというのかな。
そういう正反対のようなふたりが、
古巣は同じというのが、
資生堂という会社のおもしろさですね。
──
本当ですね。
太田
でも、石岡さんにとって
資生堂の仕事はほんの序の口で、
そこからの展開スケールが大きかった。
都現代美術館の「石岡瑛子展」は行ったでしょう?
──
はい。
太田
映画の衣装なんか、すごかった。
監督やプロデューサーに、粘り強く交渉しながら、
「この映画には、こういう衣装でなければ」
をかたちにする。
まさに偉大なコンセプターであり作家。
──
2年間は一緒だったと言われましたが、
石岡さんの思い出はありますか。
太田
怖くて近寄れませんでした(笑)。
憶えているのは、
あるとき「太田くん、昼間どこ行ってたの?」
と聞かれ、
日比谷みゆき座で、
マイク・二コルズ監督の映画「卒業」を見てきたと
答えると、
「ああ、あれはいいわよ」と言ってくれた。
‥‥それだけ。
──
そのことを、憶えてらっしゃる。
太田
ぼくは毎日ひとりで残業していたんですが、
夜おそく石岡さんが
「辞めてニューヨークに行きたい」というのを、
上司の中村(誠)さんが
「半年くらい休んでもいいから辞めるな」と
説得していた。
そのやりとりを、
遠くで息を詰めて聞いていたのを憶えています。
──
でも、
石岡さんは、資生堂をお辞めになってニューヨークへ。
太田
はるか後年、フリーになっていたぼくが
撮影に行った109スタジオで、
帰国中の石岡さんにばったり合い、
「最近は映画のプロダクションデザインを
されてるそうですね」と言うと
「太田くん、よくその言葉知ってるわね」と笑ってくれた。
ちょうど映画「mishima」を撮っていたころでしょう。
──
資生堂時代の石岡さんの広告について、
たとえば、何かお話いただけますか。
太田
「ホネケーキ」や「スペシァル化粧品」の雑誌広告は、
それまでのムード的な資生堂表現とちがい、
非常に知的なコンセプト、ヴィジュアルで、
あれを越える理性的広告はまだないです。
──
わあ。まだ、ない!
太田
毎年、全国のチェインストアに配る
資生堂大型カレンダーは、
発行部数も桁ちがいに多く、
膨大な予算をかけるとても大きな仕事で、
任されるのは、力を認められた大任でした。
石岡さんは印刷所と組んで、
当時最先端の製版技術
「ダイトランスファー」を駆使して、
画期的なものに仕上げた。
後年ぼくも担当しましたが、
石岡さんのそれが目標でした。
──
もう、聞けば聞くほど。
太田
なにしろ、
何をつくるにも「知」の背骨がしっかり通り、
その技術追及も最高のクォリティを求めた。
ある年のサマーキャンペーンが
もう終わっているのに、
まだポスターを校正していたという逸話があります。
とにかく、すごい方でした。

(つづきます)

2021-03-13-SAT

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  • 2月下旬に刊行された大部の作品集
    『仲條 NAKAJO』から、
    仲條さんの作品を選りすぐって展示。
    ポスターやトートバッグなどの
    仲條さんのグッズや、
    資生堂パーラーのお菓子も
    特別に販売しています!
    会期は、3月28日(日)まで。
    詳しいことは特設ページでご確認を。