こんにちは、「ほぼ日」の奥野です。
2年ほど前に
『インタビューというより、おしゃべり。』
という本を出しました。
これは、俳優、画家、自転車修理業、友人、
匿名の会社員、詩人、政治学者‥‥と、
出てくる人がまったくバラバラだったため、
タイトルをつけるのがタイヘンで。
唯一、すべての記事に共通していたのが
「インタビューをとったはずなのに、
出来た原稿は、おしゃべりみたいだった」
ので、こうしたのですが。
今度は逆に、積極的に、最初から
「インタビューでなく、おしゃべりしよう」
と思って、6名の方にお声がけしました。
こころみとして、そうとう無目的。
お声がけの基準は
「以前からおつきあいがあるんだけど、
どういう人か、実はよく知らなかった人」。
5人目にご登場いただくのは、
フリーでドキュメンタリーを配給する
有田浩介さん。
映画祭で映画を買いつけ、劇場を当たり、
本のようなパンフレットをつくり‥‥と、
ひとりでやってる。尊敬する友人です。

※インタビューはちょうど1年前、2021年6月6日に行いました。

>有田浩介さんプロフィール

有田浩介(ありたこうすけ)

サニーフィルム代表。1979年テキサス州ヒューストン生まれ。大学を卒業後、2004年よりレコード会社の宣伝部に勤務。2007年にフリーランスへと転身。2007年から2010年までの3年間、約200タイトルの音楽コンテンツの契約、宣伝、流通業に携わる。2010年にサニー映画宣伝事務所を設立し、国内外のドキュメンタリーのパブリシティー業務に従事する。2015年にシリア内戦の初動を内省的に描く『シリア・モナムール』を「テレザとサニー」名義で初配給する。2017年サニーフィルムへと改名し、オーストリアの鬼才ウルリヒ・ザイドルの『サファリ』、ナチス宣伝省ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書を務めた女性の生前最後の独白『ゲッベルスと私』、ヒマラヤ仏教国最後の桃源郷ブータンの近代化と少年たちの夢を捉えた『ゲンボとタシの夢見るブータン』、内戦でベイルートに逃れたシリア人難民労働者を追う『セメントの記憶』、村上春樹の翻訳家の仕事を追ったハイブリッド・ドキュメンタリー『ドリーミング村上春樹』、カンヌ2冠、近作10作品全てが三大映画祭に公式出品される偉業をなしている、ウクライナの偉人セルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー群を配給する。世界の映画祭を旅し、ジャンルやテーマにとらわれず世界最先端のドキュメンタリーの国内配給権を取得し、劇場や教育現場での上映を通じて、世界の多様性と映画の芸術性を伝える事をミッションにしている。

>書籍『インタビューというより、おしゃべり。』とは

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ほぼ日刊イトイ新聞の編集者である奥野が過去に行ったインタビューのなかの14篇を、星海社さんが一冊の本にしてくださったもの。ご出演いただいた方々の肩書は、俳優、洞窟探検家、自転車販売・修理業、画家、友人、映画監督、俳優、会社員と主婦、映像作家、詩人・歌手・俳優、俳優・アーティスト、政治学者‥‥と、まさにバラバラ。具体的には柄本明さん、吉田勝次さん、鈴木金太郎さん、山口晃さん、巴山将来さん、原一男監督、山崎努さん、Nさん夫妻、佐々木昭一郎監督、ピエール・バルーさん、窪塚洋介さん、坪井善明先生‥‥と、何が何やら。装丁は大好きな大島依提亜さん、装画は大人気の西山寛紀さん、あとがきの部分でわたくしにインタビューしてくださったのは大尊敬する古賀史健さん‥‥と、なんとも幸せ者な一冊です。Amazonでのお求めは、こちらからどうぞ。

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第2回 『大いなる沈黙へ』の大ヒット。

──
以前、有田さんと話していて、
いまでも記憶に残ってる言葉があって。
有田
何?
──
「お金を稼ぐのって、大変だよ」って。
有田
そんなこと言った?
──
トークショーで、葉山に呼ばれたとき。
有田
あ、辰巳芳子さんの『天のしずく』か。
──
車の中で、しみじみ言ってたよ。
有田
やっぱり、ギャランティの額が低くて
大変だったんだよね、当時はまだ。
根本的な取り組みを変えないと、
永遠にこのままだろうなと思ったんだ。
で、たしか同じくらいのタイミングで、
事故に遭ったんだよね。
──
バイクで。
有田
そう。指先が1本、ちぎれちゃった。
お金を稼ぐってことの大変さと、
バイク事故をきっかけに、
下北にあった映像の事務所を閉じて、
葉山に帰った。
こういう仕事のやりかたは
もう続けていけないなあと思ってね。
心身ともに疲れるし、稼げないし、
怪我はしちゃうし‥‥で、
自分は何のために仕事をしてるのか、
わかんなくなっちゃった。
──
なるほど‥‥。
有田
宣伝の仕事へのモチベーションとか、
映画に対する愛情、
好きな作品を人に届けたい気持ち、
どれもすごくあったんだけど、
すべてが空回りしていたんだろうね。
それで少し葉山で休んでたんだけど、
映画のことをやりたい気持ちはあって、
シネマ・アミーゴって劇場で、
ドキュメンタリーの上映会をしたりね。
──
どういう作品を?
有田
スペースシャワーTVで
ディレクターをやっていた川口潤監督の
音楽系のドキュメンタリー‥‥
Shing02や、
THA BLUE HERBを追った作品だったり。
彼の作品を特集上映して、
トークイベントを企画して集客もしたり。
──
そうなんだ。
有田
で、中村高寛監督の『ヨコハマメリー』を
上映したとき、元アルゴ・ピクチャーズの
熊谷さんが来ていて、
彼女のところに
『大いなる沈黙へ』の配給会社から
電話がかかってきたんだよ。
こんど、岩波ホールで長尺映画をやると。
熊谷さんへの
宣伝協力依頼の電話だったんだけど、
彼女は忙しくて出来なかったから、
「有田くんって
ドキュメンタリー好きな人が
いま目の前にいるので聞いてみます」と、
繋いでくれたんだ。
──
そういう経緯で。
有田
その場ですぐに「やりたい」って言った。
それが、2014年の3月。
──
たしか、有田さんの宣伝の仕事としては、
まず『天のしずく』がヒットしたけど、
じゃあ、そのあとに、
『大いなる沈黙へ』が大ヒットしたんだ。
有田
そう。はじめて
ちゃんとしたギャラをもらった作品が
『天のしずく』だった。
奥野さんにも、鎌倉で辰巳芳子さんを
インタビューしてもらったけど、
あの作品には、本当に助けられた。
自分の考え方でもやればできるんだって、
自信をもらえた仕事だったからね。
──
うん、うん。
有田
それまではどんなに一生懸命やっても
年間150万とかしか稼げなくて、
仕事も人に言われたことばかりで、
ギャラは安いし、
稼げないものだから、
いろいろと細かいこともやりはじめて、
お金はないのに、忙しかった。
でも、辰巳さんの『天のしずく』では、
自分のやり方で宣伝させてもらえたし、
何より
毎月お金が入ってきたから、
すっごくホッとしたことを覚えてるよ。
──
つまり、月給契約みたいなこと?
有田
業務委託で、すごく支えられたんだよ。
だからしがみついたんだ、あの仕事に。
絶対に手離したくないって思った。
この仕事さえあれば、
自分は大丈夫だって思い込んでたから。
少なくとも、お金の面では。
──
なるほど。
有田
それが、1年半くらい続いたんだ。
映画のパフォーマンスもよかったから。
あの仕事が終わるのがこわかったから、
自分の仕事をうみだす努力もしてた。
「次は、海外展開はどうですか」
みたいに、映画に、しがみついたんだ。
──
必死に企画を考えて、提案して‥‥。
有田
ただ、当然だけど、永遠には続かない。
フリーにはありがちだけど、
仕事って、突然、なくなるんだよね。
1年くらい経ったら、
仕事の報酬はどんどん下がっていった。
──
1年。
有田
『天のしずく』を宣伝していたときは、
いつまでも
『天のしずく』ができると思ってた。
でも、そうはならなかった。
『天のしずく』の仕事が打ち切られたのは
本当にショックだったよ。
映画に、しがみつき過ぎていたんだよね。
そのときに学んだのは、
どれだけ情熱を注いでも
一生続く映画なんてないんだということ。
──
どんな作品でも、いつかは終わる。
有田
そう。
いつか必ず、映画の仕事は終わるんだ。
安定を求めるのであれば、
この仕事じゃないだろうなとは思った。

──
でも『大いなる沈黙へ』が大ヒットし。
有田
急に有名な宣伝マンになってしまって。
自分で言うのも何だけど。
──
ぼくも、映画を見た坂本大三郎さんに
インタビューさせてもらったよね。
口コミで広まっていく感じ?
有田さんという人がいる‥‥みたいに。
有田
各社から仕事の話が来るようになった。
付き合う会社も変わっていったし、
ギャラも、3倍4倍と上がっていった。
──
その金額も、あちらからの提案で?
有田
そう。こっちから「いくらで」なんて
言ったことはなかったよ。
何にも言わなくったって、いい金額を
提示してもらえるようになった。
それを年間で15本とかやってたから、
お金もずいぶん稼げたんだ。
──
急に。
有田
そして、とにかく、忙しい人になった。
──
じゃあ、断る仕事もあったり。
有田
うん、断らざるを得ない仕事もあった。
公開初日が重なってるとかで。
でも、いつかは
自分で映画を配給したいって気持ちを
ずっと持っていたから、
少しでも、経験とお金をためなきゃって。
それで、とにかく、仕事を入れ続けた。
いまだから言えるけど、
公開初日が重なっちゃったりもしてたよ。
──
それって、両方の劇場に顔を出す‥‥。
有田
いまでも申しわけなく思ってる。
いまは当時と
宣伝業の状況も変わってるかもしれないけど、
当時はタブーだったから。
──
そうやって、宣伝の仕事を請け負って
忙しく仕事をしながら、
どういう映画を配給しようか‥‥
という準備も進めてたってことだよね。
配給できれば何でもいいってわけでも、
ないだろうし。
有田
そうだね。
映画の宣伝とか配給の仕事というのも、
ものをつくったり書いたり、
そういう行為と同じく「表現」だから。
──
有田さんの場合は、
自分の配給作品のパンフレットとかも
めっちゃ気合いを入れて、
本みたいに本格的につくっているよね。
あれ、完全に編集者の仕事だと思うよ。
有田
自分なりの配給をやりたくなるんだよ。
ただ、自分なりに映画を配給するには、
お金も経験も技術もコネも必要。
最初の作品『シリア・モナムール』を配給するまで
2年くらい時間がかかった。
その間は、お金と情報を集めることに没頭してたよ。
──
まず「映画を買う」には、
いったいどうしたらいいんだろう‥‥
からのスタートでしょ?
有田
そう。いくらで買えるんだろうとかね。
──
想像したこともないなあ。映画の値段。
値札を貼ってるわけでもないだろうし。
有田
配給会社の人たちと飲んでいるときに
「映画って、たとえば
いくらくらいで買えるものなんですか」
とか聞いたりして、情報を集めていた。
──
人のつながりの中から、探っていって。
有田
買った映画を、
どうやって劇場にブッキングするかも、
結局、人とのつながりなんだよね。
日頃から
宣伝として劇場と付き合っていたから
「有田さんが映画をやるんだったら、
うちでやりますよ」
みたいなことを言ってもらえたからね。
──
第一作めの『シリア・モナムール』は、
どうやって見つけたの?
有田
2015年の
山形国際ドキュメンタリー映画祭って
2年に一度やってる映画祭で観て
配給を決めたんだけど、
そのタイミングで、限界が来たんだよ。
──
何の?
有田
自分の限界。もうこれ以上、
仕事で人をガッカリさせちゃいけないなと。
──
どういう意味?
有田
宣伝の仕事でお金をもらうからには、
フルコミットしなくちゃダメだよね。
最大限のパフォーマンスを発揮して
ギャラのぶんを返すべきだけど、
忙しくなり過ぎていて、
それが、できなくなってたんだよね。
そうすると、自分の気持ち的に、
人をだましているような気になって。
──
ああ、なるほど。そういう限界。
有田
そのときに、ふたつのことを思った。
これ以上は人に迷惑をかけたくない。
それと、これ以上、
人のビジネスで、仕事をしたくない。
──
つまり、自分でやりたい。
有田
もう、自分でやるべきだと思った。
そうしないと、
仕事がアンフェアになると思った。
──
極限まで忙しくなって、そのことに気づいた。
有田
それが、2015年の
山形の映画祭のタイミングだった。
映画祭に参加するとなると、
1週間は仕事ができなくなるから、
宣伝の仕事を一回、止める。
そこで明確に、わかったんだよね。
自分でやるべきだ、ということが。
──
映画祭に買い付けに行ってる人は、
朝から晩まで観てるわけだよね。
最終的に『シリア・モナムール』を選んだ
決め手は何だったの?
有田
やっぱり、作品のインパクトかな。
シリア内戦の初期段階だったけど、
まさに、
いまやらなくちゃいけない映画だ、
そうも思ったし。
──
シリアの名もなき人々が
SNSにアップした現地の映像を
つないだドキュメンタリー。
観終わったとき、
何か‥‥呆然としたのを覚えてる。
有田さん、
すごい映画を買ったんだなあって。
有田
ぼくは、中東をテーマにした作品を
絶対やりたいと思っていた。
というのも、
ぼくは湾岸戦争がはじまったころに
テキサスの小学生で、
トマホークミサイルが飛んでくのを、
CNNで見てたんだよね。
で、テキサスの子どもたちは、
それを、すごく応援してたんだよね。
──
ああ‥‥。
有田
アメリカは絶対的な正義だったから。
当時の自分にとって。
学校でもそういう愛国的な教育を受けていたし。
──
なるほど。
有田
中東はずっと混乱してるよね。
自分の最初の戦争の記憶である湾岸戦争以降も。
そういうこともあって、
中東の映画は、ずっとやりたいと思ってたんだ。

(つづきます)

2022-06-07-TUE

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  • サニーフィルムの最新配給作品は  ヘルツォーク監督が撮った  ブルース・チャトウィンの映画。

    有田さんのサニーフィルムが配給する
    最新ドキュメンタリーは、
    ヴェルナー・ヘルツォーク監督が
    生前親交を結んでいた
    イギリスの作家
    ブルース・チャトウィンを追った作品。
    『歩いてみた世界
    ブルース・チャトウィンの足跡』です。
    チャトウィンの「放浪」のあとを、
    多くの関係者のインタビューによって、
    立体的に追いかけてゆきます。
    この作品は、惜しまれつつ閉館する
    神保町岩波ホールの最後の上映作品。
    有田さんの配給する映画、
    何度か岩波ホールに見に行ったなあ。
    有田さんとはじめて出会ったのも、
    同じヘルツォーク監督が撮った
    3万2千年前の洞窟壁画の映画でした、
    そういえば。
    映画について詳しくは公式サイトで。
    また、5月末からはウクライナの出身の
    セルゲイ・ロズニツァ監督が、
    ウクライナ東部ドンバス地方の内戦を
    ダークユーモアを込めながら描き、
    2018年のカンヌ国際映画祭
    《ある視点》部門監督賞を受賞した作品
    『ドンバス』を
    ロシアのウクライナ侵攻を受け緊急上映。
    6月3日からは
    ヒューマントラストシネマ有楽町で
    上映されています。
    以降、全国順次ロードショーの予定。
    こちらも、詳しくは公式サイトで。

    インタビューではなく、おしゃべり。更新予定

    2022年4月11日更新 1人め  ひろのぶと株式会社代表取締役社長 田中泰延さん

    2022年4月25日更新 2人め  闘道館館長・開運!なんでも鑑定団 鑑定士 泉高志先輩

    2022年5月9日更新 3人め  ものつくり株式会社 田沼遊歩さん

    2022年5月23日更新 4人め 編集者 堅田浩二さん

    2022年6月6日更新 5人め サニーフィルム 有田浩介さん

    2022年6月20日更新 6人め レ・ロマネスク MIYAさん