
100歳まで元気に生きられるなら、
100歳まで働いていたいと思っていました。
わたしの周りの働いている先輩たちが、
かっこよかったからです。
でも益田由美さんに出会って、
その考えは揺らいでいます。
定年後の充実した日々も、
自分次第でたぐりよせられるようです。
日々たのしそうな益田さんにお話を伺いました。
担当は、ほぼ日の下尾(しもー)です。
益田由美(ますだ ゆみ)
1955年2月11日生まれ。1981年から15年も続いた国民的人気番組「なるほど!ザ・ワールド」のリポーターとして6年半、世界を飛び回り、その体を張ったリポートで人気を博した。民放の女性アナウンサーとして定年まで勤め上げるのは非常に珍しく、フジテレビでは女性アナウンサーの定年退職者第一号。約40年にわたって現場にこだわり続けた。現在、経験と知識を活かして様々な分野で活躍中。
HP:https://www.firstagent.jp/masuda-yumi/
Instagram:https://www.instagram.com/yumi__masuda/
- ──
- 益田さんは小さい頃から
アナウンサーになりたかったんですか?
- 益田
- いや、本当にアナウンサーにはなろうとも、
なれるとも全く思っていなくて、
勘違いからアナウンサーになったんです。
- ──
- どういうことですか?
- 益田
- 1976年の就職活動は最近とは違って、
4年生の10月からのスタートでした。
大学の就職課に行ったときに、
各局「アナウンサー募集」と張り紙があったのですが、
フジテレビだけが「リポーター募集」となっていました。 - その頃『テレビウィークエンダー』という番組があって、
そうそうたるタレントさんが、
スタジオでおもしろおかしくリポートしていたため、
「リポーター」という名称が世に知られるようになって、
リポーターなら落ちたとしても、
シャレとして、話のネタになると思ったんです。
フジテレビ以外は商社とメーカーを受けていました。
- ──
- 全然違いますね。
- 益田
- 当時は第一次オイルショックと
第二次オイルショックの狭間みたいなところで、
ものすごく就職が困難で、
男性はもちろん、女性は何をかいわんやで。
学校指定があったり、
成績の優が何個以上じゃないと受けられなかったりとか、
いろいろな制約がありました。
ですから、どこでも受けられるわけじゃなかったんです。
商社とメーカーは落ちて、マスコミで唯一受けた
フジテレビだけ、三次まで進んでいきました。 - 三次試験のときにフジテレビの人事の人に、
「リポーターって、どんな仕事をするんですか」
と聞いたら、ものすごくびっくりしながら、
「アナウンサーのことを
フジテレビではリポーターっていうんです。
知らなかったんですか。」と言われました。
それには私のほうがびっくりしたものの、
他は全部落ちていたので、受け続けました。
とはいえ募集としては
「リポーター募集。ゼロないし若干名」だったんです。
- ──
- ゼロ?
誰も採らない可能性もあったんですね。
- 益田
- そうです。
しかも私がテレビ局に対して無知で、
アナウンサーになるための
訓練をしてきたわけではなかったので、
できないことが、すごく目立っちゃったみたいです。
できない子が、ひとりくらいいてもいいんじゃないか
ということで、入社できることになりました。
- ──
- ご縁があったんですね。
フジテレビには社員として入社されたんですか?
- 益田
- 契約社員として入社しました。
当時、アナウンサーは、
女性は契約社員として、男性は正社員として、
採用されるような時代だったんです。
そして今で言うところの、
いわゆるアナウンサー全員が
「報道局解説放送室リポーター」という肩書でした。 - 何もできないままに入社したので、
会社も期待をしておらず、
私も「こんな私を採ったほうが悪い」と
心の中で開き直っていました。 - 何しろ、あがり症で緊張しいだったし、
落ちこぼれで、本当に仕事がなくて。
アナウンサーは合っていないなと思いつつ、
あっという間に4年の契約期間が過ぎました。
周りの雰囲気もあって、
辞めざるを得ないだろうなというのを
ヒシヒシと感じていたタイミングで
『なるほど!ザ・ワールド』の話が来たんです。
- ──
- えー。そんなに偶然の話だったんですね。
- 益田
- すごいタイミングですよね。
実は1981年の4月に所属が編成局に移り、
肩書はアナウンサーになっていました。
会社自体も変化の時を迎えていたんです。 - そんなとき、アナウンス室のデスクから、
「10月に『なるほど!ザ・ワールド』
という番組が始まって、
タレントさんが海外に取材に行くけれども、
益田は国内リポーターをやってもらう。
番組は1クール、3ヶ月で終わるだろうから。」
と言われました。
1回目放送したら、案の定、視聴率が9.9%‥‥。
- ──
- 当時は、みんなが
テレビを見ていた時代だから、
視聴率が9.9%でも、今と違って
低すぎたということでしょうか。
- 益田
- そうですね。
その頃、フジテレビは何をやっても、
視聴率が取れない時代だったんです。
9.9%も「やっぱりね」というのが、
社内の評価でした。 - そして1981年の10月に番組が始まって、
11月のネパールロケに行く人が見つからなかったときに
「国内リポーターの益田がいた。
局員だから出演料はかからないし、
スケジュールもどうにでもなる。」ということで、
国内リポーターだけだったはずが、
急遽ネパール行きが決まり、
タイで撮影していたスタッフと
ネパールで合流することになりました。
- ──
- え!? 現地集合ですか。
- 益田
- 最初のころは、ずっとひとりでした。
リコンファームって知っていますか?
- ──
- わからないです。
- 益田
- 昔は予約をした飛行機のチケットは
何日か前までに「必ず乗りますよ」という
連絡をしないとキャンセルになってしまいました。
私はひとりで、
ネパールからタイのバンコク経由で
東京に帰らなくちゃいけないのに、
ネパールからタイへ行く飛行機が
リコンファームされていなくて乗れなかったんです。
でもすぐに日本で仕事があるので、
何が何でも帰らなくてはいけない。
- ──
- えー!? どうしたんですか?
- 益田
- 当時は携帯もないでしょ。ひとりでしょ。
言葉は通じないし、日本語がわかる人は誰もいない。
結局インド経由でバンコクに入って、
そこでもあらゆることが起こって、それを話すと
3日くらいかかってしまうから端折るけれど、
最終的には持っていたチケットのようなものを見せて、
なんとか押して押してアピールしていたら、
最後は搭乗券を放り投げてくれました。
- ──
- いやあ、恐怖の体験ですが、
戻ってこられて、本当によかったですねえ。 - 海外での食事は苦にならなかったですか?
- 益田
- 私は鉄の胃腸を持っていて、
好き嫌いも全くなかったし、
食べ物に対する偏見もなかったから、
現地のものをすごくたくさんいただきました。
そうすることで現地の人も喜んでくれるんですよ。 - 現地のものっていうのは、
それをそのまま日本に持ち帰っても、
もしかしたら、あまりおいしくないかもしれません。
でも、その土地の歴史とか、
気候風土に合ったものだから、
すごく理にかなっていて、
そこでいただくと、おいしいし、
元気をもらえるんですよね。 - ネパールロケでは、
いろんなトラブルがあったけれど、
益田は、ひとりで現地に行って帰ってきて、
現地では何をやらせても何を食べさせても
大丈夫だと判断されてしまって、
それから国内と海外のロケを並行してやるように。
最初の1年は、国内は60数箇所、
海外には13カ国行っています。
年の休みは10日ほどでした。
- ──
- いきなり、そんなに行かれたんですね。
辞めなきゃいけないムードは、
だんだんなくなってきたんですか?
- 益田
- それが不思議でね。
1985年に男女機会均等法が制定されて、
翌年に施行になったと思うのですが、
私は88年まで番組に出ていたので、
その間にやっぱり会社自体も
「女性アナウンサーだけ契約社員って
おかしいよな、同じ試験なのに。」
という空気になっていったんだと思います、たぶん。
- ──
- たぶん?
- 益田
- 私は外国にばかり行っていたので、
そのへんの事情はよくわからないんですけれども。
知らないうちに社員になっていました(笑)。 - 大好きな2年先輩のアナウンサー田丸美寿々さんは、
女性キャスターの道を
切り開いたひとりでもあると思うのですが、
彼女がいちばん長く勤めて、8年だったんです。
私は38年近くいたので、30年、記録を更新しました。
- ──
- フジテレビの女性アナウンサーの方で、
初めて定年まで「アナウンサー」一筋で
勤めあげたのが益田さんなんですよね。
- 益田
- そう、初めて。定年後10年経ちますが、
後輩にも、そのような人はいません。
ああ、なんか不思議な人生だなあって、
ことあるごとに感じていました。
(つづきます)
2025-08-11-MON
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ヘアメイク:真知子(エムドルフィン)
写真=武井義明(ほぼ日)