
かつて、もう15年以上前に、ほぼ日で、
「いつもさみしい問題」というコンテンツが
とても盛り上がったことがありました。
もともとは、血液型によって、
さみしさを感じる度合いが違うのかも、
という遊びだったのですが、
だんだん本質的な「さみしさ」の話になって、
それはそれで、とてもおもしろかったのです。
そのコンテンツを、ずっと憶えていたのが、
「ほぼ日の塾」の第一期生であり、
いま、さまざまなメディアで活躍している
ライターの朝井麻由美さんでした。
いろんなツールで人と人がつながってる
いまのほうが、さみしいかもしれない。
いや、むかしもいまも、
人はずっとさみしいのかもしれない。
「さみしい」について話していきます。
人選は朝井さんにお任せしますので、
意外な人が登場するかもしれません。
ところでみなさん、いつもさみしいですか?
1人目の取材 最上もがさん
もともとの「いつもさみしい問題」(2004)
取材・構成 朝井麻由美
山内マリコ(やまうちまりこ)
1980年富山県生まれ。小説家、エッセイスト。
2008年「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞し、
2012年に『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)でデビュー。
「地方での生き様」や「女性のリアル」を
描く名手として知られる。
最新刊はエッセイ集『The Young Women’s Handbook ~女の子、どう生きる?~』(光文社)。
- ――
- 結局、「さみしい」ってなんなんでしょうね。
- 山内
- 「さみしい」は「お腹すいた」とかと同じような
シグナルの一種なんじゃないかと思います。
「お腹すいた」は「カロリーを補給せよ」という
シグナルですが、それと同じで、
「ひとりで過ごしすぎている」と
警報が鳴っているってことなんですよ。
いまの社会って、ひとりで生きていけるように
実用面ではあらゆるものが整っていますが、
精神的な部分では、やっぱりひとりだと厳しい。
それはわたしが20代の頃、
京都で暮らした3年間で身をもって知ったことで。
誰も知り合いのいない街で、
じぶんのためだけに生きることの
むなしさを痛感してしまった。
「わたしはひとりが好きだから」
って言っておきながら
いざほんとうに周りから誰もいなくなったときに
あ、わたし、間違ってたんだ、と
すごく思ったんですよね。
- ――
- わたし、いままさにかつての山内さんのように
「ひとりがいい!」と思っているところなのですが、
生まれも育ちも東京で、「ひとり」と言っても、
結局はなんだかんだで知り合いが
それなりにいるんですよね‥‥。
いかに甘ったれた環境にいたのかを思い知りました。
- 山内
- そういう環境があったうえで
じぶんで選択した「ひとり」なら、
いいんじゃないですか?
そういえば昔、
『アバウト・ア・ボーイ』という映画を観て、
裏切られた気持ちになったんです。
ヒュー・グラント演じる主人公は
家族もいらない、友達も別にほしくない、
とじぶんひとりで完結した暮らしをしていて。
わたしはその姿に共感して観てたんですよ。
ところが、ヒュー・グラントは
ストーリーが進むにつれて
「それは間違っていた。
やっぱり人に囲まれることが幸せだ」
とだんだん発見していく。
それがすごく不満で(笑)!
ひとりで生きていく、と言っていたときの
ヒュー・グラントの何が悪いんだ、って。
- ――
- はい、はい。
- 山内
- でも、さみしかった京都時代を経て、
わたしは思い上がっていたんだと考え直しました。
実際はどちらが正しいとかではないと思います。
逆にいまその映画を観たら、
ひとりで完結する生活を続けることで
見えてくるものもあったんじゃないか、
という感想を持つかもしれませんけどね。
- ――
- 「さみしい観」を180度変えてしまうほどの
「さみしい体験」、面白いなぁ。
- 山内
- 猫さえいれば平気だと思ってたけど、
やっぱり「人」が恋しくなってしまった。
敗北感もあったけど、
思い上がっていたじぶんには
ちょうどよかったのかも。
- ――
- それってじつは貴重な体験かもしれません。
いまって、SNSがあるので、どこにいても
完全に関わりを断ち切るのは難しいですよね。
- 山内
- そうかもしれません。
当時はスマホもなければ、
SNSがこんなに生活の一部になってるわけでもなかった。
リアルな人とのつながりがすべてで。
だから、スマホがあって、
ネットでつながっているいまの時代は、
かつてわたしが味わったような孤独は、
もう味わえないんだと思います。
- ――
- うわー、そう考えると、
スマホがなかった時代だからこその
「さみしさ」ですよね。
- 山内
- その後わりとすぐにSNSやスマホが出てきましたから、
あれはほんとうに
地球最後の「さみしさ」だったかも(笑)。
- ――
- 当時は大変な思いをされたと思いますので、
うらやましい、というのが適切なのかはわからないですが
ちょっとうらやましい気がします。
- 山内
- わたしも、あの頃のじぶんのさみしさが
ちょっとうらやましい(笑)。
SNSやスマホが浸透する以前のあの感覚って、
きっともう二度とないですからね。
ただ、SNSがあるいまの時代だと、
また別の種類のさみしさがあるのかな。
- ――
- 「いいね」をもらえないさみしさ、とかでしょうか。
- 山内
- 通話もタダだから、
とりあげず友達と通話状態にしておいて、
何もしゃべらず置いておくって、
聞いたことあります。
電話代で泣いてたわたしの時代とは違う(笑)。
いくらでもつながれるから、
つながれないことに
すごく枯渇感がありそう。
さみしさを埋める手段が増えたことで、
さみしさ耐性が低くなってるというか。
でもこれは、じぶんにも言えることですね。
わたしが味わったさみしさがもうないように、
SNSをどっぷりやってる若い人が
味わってるさみしさは
わたしにはわからない。
そのさみしさも、なかなかよさそうだな(笑)。
- ――
- 先ほど山内さんがおっしゃっていたような、
京都時代に住んでいた部屋そのものが
「さみしい物件」だった、というのも
現代ではもうあまり生まれてこない感覚なのかな‥‥。
- 山内
- ああ、確かに、部屋の写真撮って、
気の利いたこと書いてSNSに載せる、
というアプローチになるのかな。
ひとりで受け止めきれないものを
ネタ化してSNSにとりあえず投げるのが、
いまの「さみしい」への対処法なのかも。
(つづきます)
2020-06-05-FRI
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取材・構成 朝井麻由美
1986年、東京都生まれ。
編集者、ライター、コラムニスト。
著書に『ソロ活女子のススメ』(大和書房)、
『ひとりっ子の頭ん中』(中経出版)など。
『MOTHER2』とウニが好き。
