かつて、もう15年以上前に、ほぼ日で、
「いつもさみしい問題」というコンテンツが
とても盛り上がったことがありました。
もともとは、血液型によって、
さみしさを感じる度合いが違うのかも、
という遊びだったのですが、
だんだん本質的な「さみしさ」の話になって、
それはそれで、とてもおもしろかったのです。
そのコンテンツを、ずっと憶えていたのが、
「ほぼ日の塾」の第一期生であり、
いま、さまざまなメディアで活躍している
ライターの朝井麻由美さんでした。
いろんなツールで人と人がつながってる
いまのほうが、さみしいかもしれない。
いや、むかしもいまも、
人はずっとさみしいのかもしれない。
「さみしい」について話していきます。
人選は朝井さんにお任せしますので、
意外な人が登場するかもしれません。
ところでみなさん、いつもさみしいですか?

>山内マリコさん・プロフィール

山内マリコ プロフィール画像

山内マリコ(やまうちまりこ)

1980年富山県生まれ。小説家、エッセイスト。
2008年「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞し、
2012年に『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)でデビュー。
「地方での生き様」や「女性のリアル」を
描く名手として知られる。
最新刊はエッセイ集『The Young Women’s Handbook ~女の子、どう生きる?~』(光文社)。

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第4回 いまならじぶんにとって良質の「さみしさ」を選べると思います

――
「さみしさ」って、
あってもいいものなのか、なくなるべきものなのか、
どっちだと思いますか?
山内
わたしは「さみしさ」をテーマにした
小説では、基本的にはさみしさを肯定して、
いいものとして描いてます。
そもそも小説という形式自体が、
「さみしさ」を肯定する側な気もしますね。
本を読むとき、人はひとりなわけで。
さみしさや孤独って
よくないものだと思われがちだけど、
適量であればその人にとって
有益なものになり得ると思っています。

――
京都にいた頃のさみしさは適量じゃなかった。
山内
あれは行き過ぎていたし
じぶんにとっての適量もまだ知らなかった。
いまならじぶんにとって
良質な「さみしさ」を選べると思いますが
京都にいる20代前半の頃はわかってなかったですね。
誰しもトライ&エラーを繰り返して、
じぶんにとってちょうどいい
「さみしさ」のさじ加減を
知っていくんだと思います。
――
そのさじ加減で言うと、
京都時代の「さみしさ」は過剰で、
いまは逆に不足している、ということですよね。
山内
ほんとうに真逆のところにいて、
じぶんにとっていいバランスとは
どういうものなのか、と探っているところです(笑)。
じぶんの内面や仕事の状況、忙しさ、
人それぞれじぶんに与えるべきさみしさや孤独の分量が、
そのときどきで変わってくる。

――
人によって必要な分量も異なるから、
「これくらいが適量です!」とは
誰も教えてくれないわけで‥‥。
山内
だから都度都度、微調整をしていかないと
いけないんですよね。
――
ありすぎても、なさすぎてもうまくいかない。
なんだか、顔の脂みたいですね。
山内
あはは。うまいたとえしますね。
ほんとうにそんな感じかも!
年齢や環境によって体質が変わるし(笑)。
――
脂、取りすぎたらダメなんですよね(笑)。
山内
なさすぎるとカサカサになる。
――
ありすぎてもギトギトになるし。
山内
まあ、人生のままならなさを思うと、
じぶんにとっての適量のさみしさなんて
夢みたいな話かも。
でも、さみしさに振り回されないためには、
さみしさにきちんと向き合ったり、
さみしさを愛することを学ぶのも
悪くないんじゃないかと思いますね。

取材を終えて。

わたし、気づきました。
「さみしい」をめちゃくちゃ「悪いもの」
だと思っていたんです。
悪くて、怖いものだ、と。
さみしくなったらいけない、
さみしさに飲み込まれたらいけない、
さみしいときにじぶんに湧き出てくる感情が怖い、
そういう、じぶんでじぶんをコントロールできない場所へ
じぶんが持っていかれてしまう恐怖、
を「さみしさ」に対して抱いていました。
だから、人より「さみしさ」も感じにくいし、
「さみしい」が生まれる前に、
入念に蓋をするような行動を取ってしまう。

さみしかった頃の話をしている山内さんは、
とても楽しそうでした。
「さみしかった、さみしかった、
とわたしさっきから言っていますが、
その状態が嫌なわけではぜんぜんないんですよね」
という言葉が表すように、
山内さんは「さみしい」とちゃんと向き合って、
仲良くなって、いいものとして消化しています。

そういう人の語る「さみしい」は
なんだかとても良さそうなものに見えて、
さみしかった経験をした山内さんを、
うらやましいと思いました。
山内さんは、さみしいことを、
恥ずかしいと思っていない。
カッコ悪いこととも、怖いことだとも、思っていない。

いいなぁ。

わたしは、やっぱり怖いです。
じぶんが支配されてしまうかも、と思うと、
「さみしさ」は怖い。
でも、怖いと思っていたことが
わかっただけでも、進歩です。
「さみしい」を
いつか好きになれる日は、来るのでしょうか。

そのさらに後日談。

じつはこの取材は、昨年の秋口に行ったものでした。
記事をつくっている間に
新型コロナウイルスが大流行、
あれよあれよという間に、
誰もが人と会えず、自宅にこもる生活に。
友達に会いたい、誰かとしゃべりたい、
といった悲鳴にも近い声がインターネットを通じて
あちこちから聞こえてくる中、
わたしはというと‥‥
やっぱりさみしくありませんでした。
なぜだ。
なぜなんだ‥‥!

考えられることとして、
ひとつは、
SNSを眺めているだけで
わたしの「人と関わりたい欲」は
満たされてしまうくらい欲求自体が
とても少ない人間なのかもしれません。
もうひとつは、
「人と関わったことによって感じてしまうさみしさ」
を恐れているのかも‥‥とも思います。
わたしも山内さんと同様、
集団行動が苦手で、人とうまくやることがへたくそです。
少なくとも、へたくそだとじぶんでは思っています。
みんなの中に溶け込もうとして
うまくいかないさみしさ、
思っていることがうまく伝わらないさみしさ、
そういう悲しい気持ちをわたしは味わいたくない。
だったら、最初から関わらないほうがいいや!
とじぶんを守っているような気がします。

だから「さみしい」って
イコール「ひとり」とは限らないんですね。
その場の人数に関わらず、
「さみしい」は生まれる。

いずれにせよ、「さみしい」を
めちゃくちゃ恐れているんだな、わたしは。

(朝井麻由美)
 取材:2019年10月

(おわります)

2020-06-06-SAT

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