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第1回  全こどもがその力を持っている。

──
小さいことばシリーズの最新作、
『こどもは古くならない。』ができました。
この本に収められていることばは
糸井さんの2019年の原稿から選んだものなんですが、
「こども」についてのことばがとても多いんです。
それは、糸井さんのお孫さん‥‥
糸井さんの表現を借りるなら「娘の娘」が、
毎日、どんどん成長していくころに
書かれたことばだからだろうなと。
糸井
うん、そうですね。
──
それで、今日は本のなかから、
「こども」に関することばを
いくつか選んできたので、
糸井さんにそのことばについて、
いろいろと語ってもらおうかなと思っています。
よろしくお願いします。
糸井
よろこんで!
──
それでは(笑)、こんなことばから。

糸井
もう、そのとおりですけど、
「ただ生きている」というその姿が
ほんとにうらやましいんですよねぇ。
見てるだけで呼吸が楽になりますよ。
もう、アートだよね。
だから、大人になってから
表現でそれができる人たちはアーティストだよね。
そういう才能というか、力を、
ぜんぶのこどもが持ってるわけじゃないですか。
ぜんぶのこども、ぜんぶの犬、もっと言えば、
ぜんぶの、カマキリの卵から孵化したやつら。
──
あの、わらわらとした一匹一匹(笑)。
糸井
ただ生きているわけだよね。
それはもう、なんかスカッとしてるよね。
見ているこっちも、感心させてもらうことで、
たのしみを怒涛のようにもらってる気がする。
そして、もらったものを、
わざわざこんなふうに原稿に書いていることも、
たのしみの続きなんだろうね。
もらったものを書くときに、
思い出し笑いするように
よろこびながら書いてるんでしょうね。
それを読んで、またよろこぶ人がいて。
大袈裟に言ってしまえば、
そういうのって、命の営みの連鎖ですよね。
ただ生きている、という真剣さが、
たのしさ、おもしろさをつなげていくんです。
なんだろうねぇ、あの、
ヨシタケシンスケさんの描くこどもって、
まさにそうなんだけど、
ものすごく真面目で、真剣じゃない?

──
ああ、はい、そうですね。
ヨシタケさんの描くこどもはみんな真面目です。
糸井
そうなんですよね。そのあたりが、
ただ生きてるということの正体ですよね。
だから、こどものことを考えるというのは、
社会や世界や歴史のことを考えるよりも、
もっと、ぜんぶのものを身近に感じられる、
ある種のすごみのあるものなんだよね。
‥‥いや、こんなに、いきなり
真面目にしゃべると思わなかったけど(笑)、
──
ぜひ、そのままお願いします(笑)。
つぎのことばです。
これ、糸井さんが書くものとしては、
けっこうめずらしいタイプのものだと思います。

糸井
なかなか、強いことばだね。
──
はい。糸井さんが原稿の中で
ここまで書くことって、あんまりないですよね。
糸井
うん。でも、ほんっとにそう思うんだよね。
そう思わない?
──
ほんとそう思います。
「こどもをひどい目にあわせないでください」と
こころから思います。
糸井
そういうことをしちゃう大人は、
やっぱり、じぶんがされてきたことのなかに、
なにか理由があるんでしょうね。
愛されていたとしても、愛され方のなかに、
なにか、相手をひどい目にあわせたり、
いじめたりすることに対する
ある種の肯定のようなものができていたり‥‥。
得られないものも含めてその人になるっていうか。
じぶんの理想像みたいなものが欠けていて。
たぶん、広々としたところで
豊かなものに囲まれていたとしたら、
「痛みを与えないと関係がつくれない」
みたいなことはなくなっていくんじゃないかな。
だから、たとえばユートピアを夢見るとしても、
ほんとにユートピアをつくろうと思ったら、
ものすごい決意が要ると思うんです。
めずらしくぼくが書いたこのことばの強さは、
そういう、決意と覚悟が表れてると思う。
逆にいうと、こいうこと以外で、
ぼくはあんまりこんなに強く言わないものね。
──
はい。その意味でもめずらしいことばでした。
もうひとつ、行きましょう。
つぎはもっと具体的に、
まさに「娘の娘」という人に向かってのことばです。

糸井
まあ、まずね、
この赤ん坊の親が、ぼくの娘なわけで(笑)、
これまでのことをちょっと思うわけです。
こういうことをしてやれなかったなとか、
こういうふうに損させちゃったかなとか、
そういうことは、多々あります。
でも、やっぱり、人って、なんていうかな、
精一杯に顔を上げて生きてると、
なんとかなってくるもんなんだなぁというのを、
娘を見ていて感じたというのがあって。
そういう娘がね、またそのつぎの、
まだまだひ弱な生き物を育てて、
いっしょになって遊んでいるの見ると、
それは「信じてあげる」っていうことが
できないとだめだろうなと思うんです。
逆に、管理して、コントロールして、
人工物として扱うような育て方をしたら、
その子の持っている力を削いでしまう。
それよりは、お互いに信じて、
安心しようよっていうふうに思うんです。
いまの大人たちって、
じぶんのちからでなんとかできるって
思いすぎてると思うんです。
──
それは、じぶんのこどもの、
未来とか、生き方を。
糸井
そう、そう。
なんとかできるって思いすぎてるから、
もう、ああして、こうして、って、
ガチガチに固めてますよね。
同じくっつけるにしてもさ、
瞬間接着剤でくっつけたら、
秒単位でくっついて直せないじゃないですか。
いまはそういう時代だと思うんですよね。
もっと、昔ののりみたいなものでくっつけたらさ、
乾くまではくっつききらないけど、
そのぶんちょっと動かせるわけで。
そこを、信じてあげるというか、
じぶんだって、親に力を抜かれてたことで
なんとか育つことができたな、
っていうことだらけだから。
極端にいえばさ、子どものころに、
「俺、あそこで、あれ危なかったな、
手がすべってたら死んでたかもね」ってこと、
正直言って、何度かあるよ。
──
ああー、たしかに(笑)。

糸井
こどものときの遊びって、
ほんとに危ないことしてるよね。
そういうのも含めてさ、運だと思うんです。
じぶんの娘のことでいえば、失敗も含めて、
彼女が運として切り拓いて行ったものがある
それが、いまは結果でわかってるわけだよね。
でも、娘の娘については、
「運よくなんとかするでしょう」って、
結果はまだ出てないわけだから、
そんな簡単に言えるもんじゃない。
とくに、いままさに育てている親はね。
でも、ぼくは、「娘の娘」になら言えるかな。
代わりに言ってあげられるかな、って。
‥‥いや、しかし、あれだな、
いいことばばかりを抜いてくるね。
──
はははははは、
いいことばがもともとあるんですよ。

(つづきます)

2021-07-12-MON

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