小林照子さんは、
91歳(!)の現役メイクアップアーティストです。
ヒットキャンペーンを数多く生み出し、
現在も美容研究や高校の運営など、
新しいことをどんどん手掛けています。
人生のなかで何度もギアを上げ、先駆者として
美の道を突き進んできた照子さんにとって美容とは、
歳をとることの意味とは。
100歳まで働いていたい、
ほぼ日の下尾が憧れの気持ちでうかがいました。

>小林照子

小林照子(こばやし・てるこ)

1935年生まれ。
(株)コーセーにおいて
長年にわたり美容について研究し、
その人らしさを生かした
「ナチュラルメイク」を創出。
そのコンセプトに基づき、
教育・商品開発に取り組み
多くのヒット商品を生み出す。
メイクアップアーティストとして、
広告・ショー・テレビ・舞台など、
女優から一般の女性まで
何万人ものイメージづくりを手がける。
(株)コーセー取締役・
総合美容研究所所長を退任後、独立。
現在は、あらゆるビューティビジネスに向けての
プランニング、コンサルティング、社員研修のほか、
死化粧の理解を深めるエンゼルメイク研究会、
メイクアップを軸に社会貢献を目指す
ジャパンメイクアップアーティストネットワーク
(JMAN)など様々な活動を意欲的に行っている。
また、メイクアップアーティストとして、
全身にメイクアップを施す「からだ化粧」でも
世界的に高い評価を受けている。

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第1回 華やかな不幸

──
照子さんは、いまもいろいろなお仕事を
なさっているんですよね。
小林
毎日、お仕事です。
──
かっこいい‥‥。
さっそくで恐縮ですが、
ご年齢に触れても大丈夫ですか。
小林
もちろんです。今月、91になります。
──
わあ、おめでとうございます。
小林
ふふふ。
──
私は「100歳まで働いていたい」と
思っているので、
照子さんはロールモデルのような存在です。
お話をお聞きできるのが本当に嬉しいです。
小林
こちらこそ、嬉しいです。
よろしくお願いします。
──
ご自身の手で、いろんな方に
メイクを施しているんですよね。
手が柔らかそうで、すごく美しいです。
小林
手はね、顔よりももっと大事にしてるんです。
──
えっ、そうなんですか。どうしてですか? 
小林
私はメイクアップアーティストだから。
人さまの大事なお顔に触れる仕事だから、
手がいちばん大事なんです。
──
ケアもよくされているのでしょうか。
小林
まず手をきれいに洗って、保湿をします。
そこで余った乳液やクリームを
顔に塗るという順番でお手入れしています。
──
お顔より、手のケアが先なんですね。
小林
ゴミを丁寧に落として、
保湿をすることがなにより大事なんです。
それによって、若いときの肌のように、
しっとりとうるおった状態を
24時間365日保つことができたら、
皮膚は老けません。
──
ええーっ。
小林
だから、肌のためには、
若いときに美容を覚えるのが
いちばんいいことなの。
そのために、親が子どもに、おばあちゃんが孫に、
美容の本当のことを伝えていくことが
大事だと思います。
美容の本当のことって、つまり、
自分の経験してきたことだから。

──
照子さんは、91年の経験のなかで
「よし、やるぞ」とギアを切り替えたことが
何度かあるようにお見受けします。
そんな瞬間はどれくらいありましたか。
小林
たくさんありました。
いちばん大きな転機は、
ちょうど30歳のときかな。
それまでは、「メイクアップアーティストになる」
という夢が第一だったんです。
あらゆるチャンスを、
メイクアップアーティストになるために
使おうと考えていました。
会社で与えられた仕事にも、
必ず自分の夢を乗せていたの。
つまり、自分のことばかり考えていたのね。
30歳になったとき、
当時所属していたコーセーの教育部門から、
マーケティング部門に移ることになりました。
教育部での最後の仕事として、
香港支店での新人教育を頼まれたんです。
ほんとはね、これから教育部門で働いていく
次の人たちに譲ればよかったのに、私は
「自分のキャリアのためにも、行かなきゃだめだ」
と思ってしまって、引き受けたんです。
そして、夫の運転で
羽田空港に向かっていたら、
大きなトラックが突っ込んで来たの。
──
ええっ?! 
小林
夫と、同乗していた妹が
重傷を負ってしまったんです。
私も全治6ヶ月のケガを負いました。
──
なんと‥‥。
小林
いろんなお膳立てをして、
無理やり香港に行こうとしたら、
行くこともできなくなってしまって。
このできごとは、
「自分のため」ばかり考えて会社にいた私に、
バーンと打撃を与えました。
「私、会社からお給料をもらいながら、
1回も『会社のために』と思って
働いたことがなかった」と反省しました。
私は子どものころから
いろいろな転機があったのですが、
この転機はそれまでの転機とは違っていました。
たとえば、親との別れなどは、寂しい不幸でした。
でも、このときの交通事故は、
会社中に私の名前が知れ渡るような
大きな事故だったから、
一躍私の知名度が上がっちゃったんです。
会社のトップの人たちも会いに来てくれて。
なんだか、華やかな不幸だったな、
って思ったんです。
もちろん、同乗していた夫や妹には
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
だけど、たくさんお見舞いのお花をいただいたり、
慰めてもらったり、許してもらったりしたことで、
「会社のために頑張ろう」と、
コロッと考え方が変わったのよ。
自分のために無理を通そうとするのではなくて、
本当に会社のためになることをしようと。
そうしたらね、会社のためにしたことが成功して、
回り回って自分の「それぞれの人の個性を活かす
メイクアップアーティストになる」という夢に
近づいていけたの。
──
予想外のできごとによって、
それまで見えていなかったものが
見えてきたんですね。
その後、照子さんが、会社のなかで
押しも押されぬ立場になっていくのは、
どんな道のりだったのでしょうか。
小林
3つの成功がありました。
まずは、開発に関わった
ファンデーションがすごく売れたんです。
「カバー力があって薄づき」という機能を
叶えるために、化粧品メーカーでは初めて、
天然のゴムを発泡したスポンジをつけたの。
プロのような技術のない、
一般の人でもきれいにメイクができるように
するために、小道具ってすごく大事なんですよ。
パウダーファンデーション自体、
開発は世界初でした。
いままでにないものだったから、
最初は反対の嵐でした。
それでも、研究所に行って
「こんなファンデーションとスポンジがほしい」
と伝えたら、研究者さんたちも白衣の袖をまくって
腕にファンデーションを塗って、
「照子ちゃん、これでいいのか?」
と協力してくれたんです。
熱心な人が多かったですね。
そういえば、研究者はよく
「限界」という言葉を使うのよ。
「それはもう限界なんだよ」って。
あんまり「限界なんだ」と言うから、
私は彼らのことを「玄界灘の男たち」
って呼んでいたの(笑)。
そしたらね、あちらは私のこと、
なんて言ってたと思う? 
──
なんですか、なんですか。
小林
私が当時流行していた
ヒッピーの格好をして
研究所に行っていたから、
「ヒッピーババア」って。
──
そんな(笑)。
お互いに言い合える仲だったんですね。
小林
そう、そう。
ブラウンの口紅をつくってほしいと伝えたときは、
「そんな色、つくったことがない」と言うから、
ちょうどいい茶色の靴を履いていた
研究員さんを「ちょっと靴脱いで!」と呼び止めて、
「ほら、このブラウンよ」と見せたりしていました。
──
あははは。それで、研究所のみなさんも
色を再現するために
頑張ってくださったんですね。
小林
頑張ってくれました。
──
最初は反対が多かったとのことですが、
実際にファンデーションが売れてからは、
評価がついてきたんですか。
小林
そうです。
でも、「照子ちゃん、ファンデーションが
120万個売れたんだよ!」
と言われてもね、そんなに心に響かなかったの。
私は売上よりも、とにかく、
自然な美しさを活かすために
あってほしいものをつくりたい、
まだ世の中にないものをつくりたい、
それだけだったから。

(明日に続きます)

聞き手:下尾苑佳
撮影・デザイン:千野裕太郎
書き手:松本万季

2026-07-07-TUE

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